清濁思龍の雑話録

遁世と修道

我が魂のルーツを辿る その1

日本では愛国心(ナショナリズム)を戦争の引き金になる危険な感情と考える人が多いので、国旗の掲揚、国歌の斉唱、皇国史観などが忌避されています。しかし、こんな特異な教育は日本だけで、外国人は国旗、国歌、歴史に誇りを持っています。

私も学生の頃は国民意識など欠片も持っておらず、漠然と「日本は戦争で悪い事をした」と思っていました。因みに、私の両親は団塊世代で、ものの見事にTV、新聞、週刊誌などの主要メディアにマインドコントロールされていました。

家には当たり前のように朝日新聞があり、父親の本棚には本田勝一の著書がズラッとならんでいました。母親は本や新聞を読む習慣を持たず、女性週刊誌のゴシップ記事を鵜呑みにする単純な人でした。

 

両親は祖父母と価値観が合わなかったのか、事ある毎に「古い人だから」とか「戦争の経験者だから」と言っていました。しかし、インテリ気取りの両親よりも、田舎の祖父母の方が賢く、物事を正確に把握する力を持っていました。

父方の田舎は浄土真宗の山寺で、本堂は古臭くてボロいし、裏手には歴代住職の墓があって不気味なので、子供の頃は帰省するのが嫌で嫌で仕方がありませんでした。また、昔は山道の途中で行き倒れる人が多く、村で餓死者が出る事もあったようです。

寺の歴史は非常に古く、何故か由緒に白狐天狗巨人が関係していたり、すぐ近くに妙見信仰と思われる謎の遺跡があったりします。因みに、歴代住職は寺の守護神である白狐から霊能力を授かり、それなりに大きな役目を与えられてきたそうです。

 

母方の田舎は農家ですが、土地の悪因縁が凄まじく、常に家の中に良くないものが居ました。新品の蛍光灯がパカパカ点滅したり、激しいラップ音が鳴り響くのは当たり前で、家族に病気や怪我が絶えず、子供が原因不明の突然死をする事もありました。

菩提寺は有名な真言宗の寺院でしたが、何度お祓いをしてもらっても状況は変わらなかったそうです。私も帰省した時に、牛の鳴き声と共に障子がスルスルと開いていくという、意味不明な心霊現象を経験しています。

従兄弟は全員未婚か子無しなので、母方の家系は途絶える事が確定しています。とはいえ、あの土地に行くと吐き気に悩まされるので、もう行かなくて済むと思うとホッとします。

 

幼い頃、私は東京の団地に住んでいました。幼稚園に入る前から水木しげる先生の妖怪図鑑を愛読する変な子供でしたが、中学二年の時に漫画の孔雀王にド嵌りして、密教呪術西洋魔術に興味を持ちました。ダイアン・フォーチュンの「心霊的自己防衛」や、アレイスター・クロウリーの「法の書」を読んだのもこの頃です。

中三の時に父親の仕事で多摩地域に引っ越し、図書館で高藤仙道を知りました。それから天台宗深大寺の境内で気功をするようになり、パワースポットと言えるような優秀な氣場を何ヵ所か自力で発見しています。

高校を卒業して就職してから数年後に、高藤先生が高く評価していたカルロス・カスタネダの著書を読み、夢見術に傾倒しました。気功のおかげか、才能のおかげか分かりませんが、少し練習しただけでカスタネダ本にある有機的存在と出会いました。

 

本の記述通りに、異世界の存在は骨も凍る恐怖と共に現れました。それは余りに恐ろしく、それ以上の探求を断念する理由としては充分でした。その日からオカルトとは距離が出来てしまい、かねてより興味があった精神分析に没頭するようになりました。

精神分析を学ぶうちに疑団(ぎだん)が深まり、25歳で転迷開悟しました。悟りのトリガーとなったのは禅関連の漫画でしたが、この時点では自分の体験が本物かどうか分からなかったので、とりあえず禅について調べ始めました。

しかし、禅の悟りと私の体験は違い過ぎて、勉強すればするほど疑問が出てきました。そんなある日、某巨大掲示板で私と良く似た経験をしている自称悟り人を見つけました。試しに対話をしてみると、驚くほど話が噛み合ったのを憶えています。

 

話し合いの末に、我々は上座部仏教「預流果」という初歩の悟りに到達したのではないか?という結論に至りました。それから上座部仏教の勉強を始め、一時は上座部仏教圏のタイかスリランカで出家する事も考えました。

でも、ネットで無明庵を知り、自分でもブログを書き始めると、上座部仏教への関心はアッサリと消えて無くなりました。後日、無明庵の記事にある「水晶を使った術」に興味を持ったので、深大寺の隣にある青渭神社で試してみました。

するとその晩、私の夢の中に青渭神社の御祭神であるミヅハノメノカミが顕現したのです。彼女?はワンピースにカーディガンという現代的な服装でしたが、明らかに人外と分かる圧倒的な御神気を放っていました。

 

 

私は既に悟りを体験していたので、いわゆる至福というものに耐性がありました。だから凄まじい御神気を浴びても平静で居られたのですが、一般人があんな体験をしたら、とても正気を保てないと思います。

恐らく、高位の神が人前に姿を現さないのは、御神気の出力が強過ぎて常人には耐えられないからだと思います。また、この体験により御神気の本質は感情エネルギーであると理解し、それ以降は弱い御神気も感得可能になりました。

これも推測に過ぎませんが、日本人特有の空気を読む文化は、八百万の神々や数多の仏尊との交流によって育まれた特殊能力ではないかと考えています。

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