清濁思龍の雑話録

遁世と修道

選挙妨害とエディプス・コンプレックス

東京15区での選挙妨害が話題になっています。選挙妨害は民主主義の否定ですから、今の日本では絶対に許されない行為です。でも、第二次安倍政権から「選挙妨害も言論・表現の自由に含まれる」という暴論が罷り通るようになってしまいました。

故・安倍元総理と国内の左派は、安保法案の成立を巡って対立していました。安倍氏が街頭演説を行うと、左派が垂れ幕やプラカードを掲げながら大声でヤジを飛ばして、安倍氏の主張をかき消そうとしていました。

北海道での街頭演説で道警がヤジを排除した時は、札幌高裁が「ヤジは表現の自由に含まれる」という内容の判決を下し、それ以降はヤジに歯止めをかけられなくなりました。それは悪意に満ちた組織的な選挙妨害が、実質的に合法化されたのと同じです。

 

国内の左派は「戦争を止める為なら実力行使もやむを得ない」という矛盾した思考回路を持っている為、自分達の思想と真逆の人物には平然とテロを仕掛けてきます。テロとはテロリズムの略で、暴力と威圧によって政治的な目的を達成しようとするものです。

普段は「如何なる問題も対話で解決できる!」とか「酒でも酌み交わして仲よくなろう!」と言っている人達が、数の暴力安倍氏の話を遮り黙らせようとしていたのに、自分達の言動がおかしいとは思わず、言い訳ばかり。これが国内左派の実態です。

挙句の果てに、大学教授ともあろうものが「(安倍氏の)暗殺が成功して良かった」などとぬかす始末。私個人は、山上被告に対して「あんな真似をさせて済まない、これは統一教会を野放しにした日本人全員の罪だ」と申し訳なく思いました。

 

左派の思考が破綻しているのは、反戦平和、自由平等、人権人道という錦の御旗・大正義に自己を委ねているからです。要はマインドコントロールによって「自分の頭で考えていると思わされている」だけで、実際は悪党の思惑通りに動かされているのです。

選挙妨害については、左派が開けた法の抜け穴を、金の為なら何でもやる怪物が悪用したという話です。しかし、既存メディアやSNSを見る限り、これで左派が反省して、マインドコントロールから覚めたようには見えません。

自信過剰なインテリほど、マインドコントロールに嵌るとドップリと浸かって抜けられなくなるものですが、精神面に幼稚さが残っているからです。幼稚だからこそ、自分以外の誰かが打ち立てた錦の御旗・大正義に飛びついて、疑おうともしないのです。

 

日本に生まれながら、日本人に成り切れず、成り切れない理由を知らないまま地球市民を気取り、人種差別まる出しの一神教徒を先進的と崇め奉り、彼らが何かを断言すると「その通り、日本は遅れている!」とアッサリ同調してしまう。

「国防の為なら戦争も止む無し」と考える右派をボロカスにこき下ろし、少数弱者と見做した外国人の肩を持ち、戦争反対、差別反対と大声で喚き散らし、正義の為なら暴力も辞さない。

チベットウイグル民族浄化をしている中国や、ウクライナを侵略しているロシアは視界に入れず、真剣に国防を考えていた故・安倍元総理を悪魔化して徹底的に攻撃し、暗殺による死を悼む事さえしない。

 

「こんな人達」に囲まれていたら、人間として成長する訳がありません。

 

個人的には、左派の幼児性の原因は、父性の欠如による所が大きいと思っています。彼らは厳格な愛され方を知らない、母性一辺倒の甘ったれた子供にしか見えないのです。

甘やかされて育った人は、幼児的万能感を克服するのが難しく、大人になっても「何でも自分の思い通りになる」という幻想と、不当に高い自己評価を持ち続けます。この幼児敵万能感と、錦の御旗・大正義が結びつくと、もう手が付けられません。

父性は甘えや思い上がりを許さず、愛のゲンコツを喰らわせて「目を覚ませ!」と怒鳴り付けます。しかし、母性しか知らない人は、この厳しさをただの暴力やハラスメントとしか思いません。

 

今の日本は弱者に優しい母性的な社会なので、何処かで父性を経験しないと「ダメなものはダメ!」と言えない大人になってしまいます。そして父性に欠ける大人に囲まれて育った子供は、厳しさと性格の悪さの区別が出来ないまま大人になります。

左派が故・安倍元総理を敵と見做したのは、軍事的な抑止力という父性的な行動を全く理解出来ず、歪んだ形でエディプス・コンプレックスを炸裂させてしまったからです。「アベ政治を許さない」というスローガンは、駄々っ子のワガママに過ぎません。

要するに、全てを包み込む母性に満ちた優しい社会を実現するには、父性そのものが邪魔であり、独裁者アベという恐怖の象徴を作り出し、仲間を集めて打倒する事で自己成長と自己実現を成し遂げようとしたのです。

 

しかし、架空の存在に過ぎない独裁者アベを倒したところで、左派の人達が成長する事はありません。何故なら、故・安倍元総理は左派の父親ではないからです。例え打倒アベを果たしても、精神的な父親殺しをした事にはならないのです。

アベ憎しで選挙妨害を常態化させ、結果的に日本の民主主義を破壊しても、左派は責任を取りません。左派にとって「責任を取る」などという父性的で厳しい考え方は否定すべきものであり、人道上の正義と共に在る者には無縁の話だからです。

もし左派の人達が一神教のマインドコントロールを解き、精神的な成熟を求めるなら、真っ先に父性を経験する必要があります。恐らく実父に父性を求めても無駄でしょうから、別の何かに父性を求める事になります。

 

私は毒親持ちで、家庭環境からは何も学べませんでしたが、登山とキャンプを通じて自然環境の父性と母性を学び取りました。山は常に死と隣り合わせですし、野生動物に甘えや人権思想は通用しないので、幼児的万能感を抱えていたら生き残れません。

でも、自然環境は何も拒絶しないし、全てを受け入れてくれる優しい面もあります。父の厳格さと母の受容という相反する要素を持ち合わせ、ただあるがままに在るのが自然環境の姿です。

人間とは違って、自然は何の配慮もしませんが、その代わり悪意の欠片もありません。だからこそ、心静かに自己と向き合う事が出来るのです。

 

矛盾の極致と、矛盾の超越

外国では学生でも政治の議論をするようですが、日本国内で政治の話をすると嫌われます。政治の話をする人は面倒臭い性格の人が多く、思想信条の違いからケンカになったりもするので、なるべく避けた方が無難です。

また、日本人は全体的に繊細で傷つき易く、ちょっとした事で感情的になって相手の揚げ足を取ってやり込めようとしたり、いきなりブチ切れて罵倒し始めたりする人が多いので、あまり議論が成立しません。

議論とは、異なる価値観を持つ人達が、意見を戦わせる事を言います。議論の目的は、異なる意見を戦わせて、より良い答えを出す事です。この論法を弁証法と言います。弁証法は論理的思考のベースなので、学んでおいて損はありません。

 

弁証法による論理的思考は、何かを正しいと決めつけた瞬間に破綻します。何故なら、既に「正しい答え」が出ていると、他の意見は自動的に「全て間違い」になるので、より良い答え(アウフベーヘン・止揚)が出なくなるからです。

自分の意見が正しいと決めつけてかかると、議論ではなく相手を言い負かす為の口喧嘩になってしまいます。議論とケンカは全然違いますし、論理的思考は「何が正解か分からない」という所から始まり、必ず矛盾に行き着いて終わります。

人間の思考や判断は二元論に基づいている為、異なる意見の対立と拮抗を超越する事が出来ません。ある意味、論理的思考や哲学は、矛盾に行き着くまでの言葉遊び(ゲーム)であるとも言えます。

 

哲学はもちろん、政治の話も必ず矛盾に行き着いて終わるので、論理的思考によって絶対的な答え(真理)に到達する事は出来ません。それは人権だろうが弱者救済だろうが同じなので、答え(結論)ありきの議論は、議論とは言えません。

この視点に立つと、TV、新聞、WEBサイト、SNSなどのメディアは情報収集には使えるものの、専門家、思想家、活動家、コメンテーター、インフルエンサーの意見は全面的に無意味・無価値となり、1つも笑えないギャグに成り下がります。

もちろん裁判官や弁護士などの法曹関係者、政治家、会社の上司、学校の先生、両親の意見も同様に無意味・無価値となり、この世に参考になる意見など、ただの一つも無くなります。

 

面白いのは、釈迦や祖師方などの悟りに至った人の意見です。彼らは実質的に「何も言っていない」のですが、自分自身が結論ありきの愚かな考えをしている時に限って、有意義なアドバイスをしてくれたような気になれます。

一般人のインテリは矛盾に行き着いてもいませんが、覚者は矛盾を超えているので、このような差がついてしまうのです。真理の探究は常に矛盾の極致から始まり、答えの出ない煉獄の底をブチ抜いて終わります。この事を知らないと、矛盾を超えられません。

二元論的思考のループこそが「この世の地獄」であり、地獄の底を抜くまでは、自我といった本質的な部分に切り込めません。つまり、自意識過剰、ナルシシズムLGBTQ性嫌悪症などの問題は、二元論的思考では答えが出ないのです。

 

どんなに賢い人でも、これらの問題に取り組むと思考が混乱していき、最後には支離滅裂な事を言うようになります。ですから、自我や性などのアンタッチャブルな問題には、極力手を出さない方が良いのです。

禅僧が古則公案に参じたり、ラマナ・マハルシが「私は誰か?」と問うたのは、弟子たちが哲学的な思考の旅からアンタッチャブルな問題に行き着かないようにする為の、ある種の配慮と考えて間違いはありません。

哲学的思考は大切ですが、哲学では最終的な答えを出せません。思考は捨てる為に高めるものに過ぎず、求めるべきは思考の超越(悟り)です。ただし、思考の超越は、思考の土台が固まっていないと起きません。

 

哲学や政治に入れ込み過ぎると、悟りからは遠ざかります。しかし、哲学や政治に無関心だと思考の土台が固まらないし、思考に中毒した他人の意見に流されて利用される事もあります。

人間社会に答えはありません。だからこそ「全ては自己成長の為」と割り切って、人間社会を俯瞰で見るのが大切なのです。

 

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愛国心と「道」の文化

殆どの外国人は、母国の象徴である国旗を見たり、国歌が聞こえたりすると、仕事中や食事中でも起立して敬意を示します。移民国家であるアメリカでは、幼い頃から星条旗に忠誠を誓い、アメリカ人になる為の教育を受けさせられます。

では、我々日本人はどうかというと、ほぼ全員が国旗や国歌など気にも留めません。それどころか国旗や国歌を戦争の象徴と見なして、露骨に嫌悪する人さえ居る始末です。

この反応の根底には「自国民の愛国心を育てると、国を守る為に戦争を始める」と言うロジックがあります。このロジックの信奉者は愛国心の無い人が増えれば戦争に行く兵士が減る、国旗や国歌の否定は正義だ」と考えています。

 

身も蓋もない言い方をすると、戦争は国益を確保する為の外交手段の一つであって、その根底には「話し合いでは解決出来ない深刻な問題」が存在します。仮に全国民が戦争参加を拒否しても、戦争の火種が消える事はありません。

火種がある限り、世界中の国家が同時に消滅しても、この世から戦争が無くなる事はありません。何故なら、人が生きて行動すれば、必ず大きな問題が発生するからです。つまり、国民に愛国心があろうが無かろうが、戦争は起きてしまうのです。

戦争を起こさない唯一の方法は、一方的な譲歩だけです。例えば、竹島尖閣諸島を手放せば、確実に戦争の火種を一つ消す事が出来ます。しかし、隣国は既に譲歩の味を占めているので、またゴールポストを動かして更なる譲歩を要求してきます。

 

日本人は「誠実さに勝るものは無い」と考えがちですが、外国ではダメ元で無理な要求を吹っかけてから交渉を始めるのが基本です。この場合は下手に譲歩などせず、相手の流儀に合わせて交渉する方が問題は起きません。

しかし、日本国民は交渉を吹っかける事に慣れていないので、日本政府が外国に交渉を吹っかけたと知れ渡れば、一瞬で政権がひっくり返ります。かと言って譲歩に譲歩を重ねれば、日本の国益がどんどん失われていきます。

国益が失われれば、その分だけ国民が経済的打撃を被り、国全体が貧しくなっていきます。「それでも戦争を回避出来るなら良し」と考える人も居ますが、それは無責任な考え方で「自分は困らないからどうでもいい」と言っているのと同じです。

 

日本は憲法9条に守られているとか、自衛隊(軍隊)があるから戦争になると主張する人も居ますが、いくら戦争の放棄戦力の不保持交戦権の否認を宣言しても、戦争の火種が完全に消滅する訳ではありません。

もし世界中の国家が軍隊を放棄しても、紛争や内戦は無くならないし、宗教同士のいがみ合いや、差別の類も無くなりません。この世から戦争が無くなったとしても、今度は経済的な戦いが激化します。実際、グローバル経済の本質は、世界経済戦争です。

戦争の火種がある場合、力の拮抗によって一時的に平和を保つしかありません。拮抗する力の種類は、武力でも、経済力でも構いませんが、力が無ければ交渉に持ち込む事さえ出来ず、一方的な譲歩を強いられます。

 

個人だけの力よりも集団の力の方が強いですし、その集団の最たるものが国家です。国家があるから戦争が起きると考えるのではなく、国家が持つ力を戦争の抑止力と考えて、正しく運用するのが大切です。その団結の象徴が国旗であり、国歌なのです。

会社員同士で協力し合う方が仕事の効率が良いのと同じで、国民同士で団結して国益を守っていく方が国家の力は強くなります。逆に国家の団結力が弱まればパワーバランスが崩れて、近隣諸国との交渉で負けたり、国家主権や領土が脅かされたりします。

因みに、国民の三大義務である教育、勤労、納税は、どれも国力に直結しています。要するに、国力を強化し続けなければ国民を守れないし、繁栄している強い国に戦争を吹っかけるような国は無いという事です。

 

国家の役割やメリットが分からない人は、国家を愛する事が出来ません。自分を守り、育ててくれた母国と故郷を愛せない人は、同様に他国も大切に出来ないし、愛する事も出来ません。恩愛と感謝を知らない人は、人間として未熟であり、幼稚です。

某芸術祭で昭和天皇の肖像を燃やす映像を「芸術作品」と強弁した人達は、平気で日本の国旗も燃やせますし、状況次第では他国の国旗も燃やすでしょう。つまり、愛国心の欠片も無い人達は、自己正当化の屁理屈くらいしか言う事が無いのです。

残念ながら日本の命運は尽きる寸前で、遅かれ早かれ皇室は無くなり、共和国かイスラム国家に生まれ変わります。大半の国民に国家を守る意思が無いのですから、それも仕方がありません。

 

ただ、亡国の憂き目に遭っても、大和民族「魂」を残す事は可能です。何故なら、魂はゲノムではなく、思想の方向性だからです。目の色や肌の色が違っても、大和魂を継承していれば日本人ですし、継承していなければ日本人ではありません。

因みに、このロジックだと、皇室も男系に固執せず、女系天皇を認めても構わない事になります。何故なら、問われるのはゲノムではなく、代々皇室に受け継がれてきた祭祀帝王学を学び、どれだけ身に付けてきたかという所だからです。

我々一般人の場合は、武道や茶道などの「道」と付く習い事をすれば良いでしょう。何かを人間的成長の「道」と見做すのは、日本だけの完全オリジナルな文化であり、言わば日本文化の精髄です。

 

将来、日本がイスラム国家になっても、宗教色の薄い茶道は残る可能性が高く、その源である禅(仏道)の精神も共に受け継がれていく筈です。もちろん禅と茶道が日本文化の全てではありませんが、それらの「道」を通じて大和魂が継承される事を期待します。

 

 

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右翼と左翼の不毛な闘争

国や民族のアイデンティティに関する問題を解決するのは困難であり、今出来るのは国民全体の知的レベルを上げる事くらいです。そして知的レベルを向上させるには、自身にかけられた教育という名のマインドコントロール全面解除する必要があります。

全面解除をするには、家庭での教育(しつけ)と、学校での(義務)教育の両方をしっかり学んだ後、自分の意思で正反対の価値観を学び、比較対照によって自分なりの答えを出す必要があります。

勉強とは他人が出した答えを学ぶ事を言い、学問は他人の答えに疑問を持って検証する事を言います。勉強だけでは高学歴の石頭のままで終わりますし、学問はまとまった勉強をした後でなければ始める事さえ出来ません。

 

戦後の日本は民族教育を行っておらず、近隣諸国への配慮から虫食い状態の歴史を教えています。その為、日本人としてのアイデンティティを持たず、日本の事を何も知らない国民ばかりという状態になっています。

個人としてのアイデンティティは、国民としてのアイデンティティという基礎や背景が無ければ育ちません。個人の力だけで0から1を生み出すのは極めて困難であり、釈迦世尊やキリストのような超人でもない限り、一代で文化を生み出す事は出来ません。

例えば、両親や学校が必要な知識を何も教えず、白紙の状態で社会人デビューする人の事を想像してみてください。そんな人が上手くやっていける訳が無いですし、もし雇用する会社があったとしても、教育係に大変な迷惑をかけるのは確実です。

 

国民としてのアイデンティティは、個人的な思考の地盤でもあります。思考の地盤が固まっていないと、地に足がつかない浮ついた思考回路が形成されて、様々なトラブルを引き起こします。早い話、非常識とか世間知らずとは、この事を言うのです。

ただ、現在は国民としてのアイデンティティを持たない人の方が多いので、常識や世間そのものが変化しており、世代間のギャップも激しくなっています。特に戦前・戦中世代と団塊世代のギャップは決定的で、その溝は埋めようが無いほどでした。

決定的なギャップの原因は、学校教育にあります。戦前・戦中世代は皇民化教育民主主義化の両方を経験したので思考に幅がありますが、団塊世代戦後民主主義の価値観しか知らないので、視野の狭い人が多くなってしまったのです。

 

私自身も学生時代は戦後民主主義の価値観しか知りませんでしたが、長く坊守(ぼうもり・住職の妻)を勤めてきた祖母と色々な話をするうちに、学校教育と両親の考え方に違和感を覚えるようになりました。

最初は違和感の正体が掴めなくて困っていましたが、たまたま小林よしのり氏の著書「新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論を読んだ時に、その違和感の正体が思想の偏りである事を理解しました。

この本を読んだ時から、私の中に根付いていた左翼的な思想と、新たに学んだ右翼的な思想が論争を始めました。最終的に「地球は地獄だ」という全然関係ない考えに行き着きましたが、それが悟りのトリガーになったのは別の話です。

 

悟りの見地からすると「右も左も偏見に過ぎないけれど、そういう見方も出来るという意味では両方とも正しい」となりますが、それはある意味「どっちつかず」の態度であるとも言えます。

一般市民なら「どっちつかず」でも構いませんが、国の舵取りをする政治家がブレまくっていたら我々有権者は困ってしまいます。政党政治はその為のもので、思想が違うなら離党するしかありません。

因みに、私の中では極左 ← リベラル ← 中庸(ちゅうよう) → 保守 → 極右」という感じで、中庸から離れるほど思想の偏りが激しくなると考えています。また、中庸は「どっちつかず」ではなく、折衷案(せっちゅうあん)を良しとするタイプと定義しています。

 

また、政治運動に関心が無いノンポリ(ノンポリティカル)層は、学校教育の影響で潜在的リベラルに分類されると思っています。尤も、このあたりは私個人の考え方なので、世間一般の定義とは違うかも知れません。

 

本来、右翼と左翼は思想の違いはあれど、両方とも愛国者の筈です。しかし、日本の左翼は少々特殊で、アナーキスト(無政府主義者)リバタリアン(自由至上主義者)に近い思想を持っています。

アナキズムリバタリアニズムは弱肉強食の思想で、例えるなら豪族が覇を競う古墳時代や、大名が天下取りに奔走する戦国時代に回帰するようなものです。つまり、現代文明そのものを否定し、全てを一からやり直したいと言っているのと同じなのです。

左翼の根底には「敗戦によって日本は終わったのだから、全く新しい国に生まれ変わるべきだ」という思想があります。そして新しい日本は「人種差別とは無縁の、グローバルな多民族国家であるべきだ」と考えている訳です。

 

しかし、日本の歴史と文化を尊重し、皇室の存続を望む保守派や右翼にとって、この思想は到底受け入れられるものではありません。何せ、自分達が大切にしているものを「全部ぶっ壊す」と宣戦布告されたのと同じですから。

また、左翼やリベラル派は法律は守るものではなく、変えるものと認識しているので、現行法を尊重せず違法行為を許容する傾向があります。だから不法滞在外国人の支援をしたり、過激なデモを行ったりするのです。

尤も、右翼も暴力的で下品なデモをするので、どちらにせよ偏った思想の持主は迷惑です。ただ、保守派の大半は学校教育や、大手メディアへの疑念から転向した人達なので、左翼やリベラル派ほど盲目的ではありません。

 

左翼やリベラル派が盲目的なのは、GHQの影響を残す学校教育や、海外のグローバリストによるマインドコントロールが解除されていないからです。実際、彼らの言動は宗教の原理主義と殆ど同じで、自分達の正しさを1ミリも疑っていません。

相対的な思想を許容するのは極めて重要で、片方だけの思想しか持っていないと、どうしても盲目的になってしまいます。つまり、左翼やリベラル派の人達に必要なのは、マイノリティ(少数派)である右翼や保守派との対話なのです。

同じ言語を使う日本人同士なのですから、酒を酌み交わしながら話をすれば、必ず和解出来ます。もし「そんな真似はしたくない」と思ったなら、それは自身が思想や知性で差別をしている事に気づくチャンスと捉えるべきです。

 

本当にあらゆる差別の根絶を願うなら、外国人を味方につけて「敵」を黙らせようとするのではなく、最も近い場所に居る「敵」と話し合って和解してみせてください。相互理解こそが世界平和への道であると証明するには、実際にやってみせるのが一番です。

勉強から学問へ。地球市民の前に日本人に。左右の分断を和解に。これこそが反戦・反差別を掲げる知的エリート達が、真っ先に成し遂げるべき使命の筈です。

 

我が魂のルーツを辿る その3

前回の続きです。

北海道半周の旅は乗り慣れた400cc二気筒のバイクだったので、むしろ長距離運転を大いに楽しんでいました。しかし、当時の私は自動車に乗り慣れておらず、全くのペーパードライバーでした。その為、諏訪はとても遠い場所に思えました。

道でいうなら中央高速を含めて一本道ですし、過去に何度もバイクで富士山スカイラインを走りに行っているので、高速道路の乗り降りには何の問題もありません。それに、カーナビとETCがあるので、むしろバイクよりも条件は良い筈です。

・・・とまあ、そんな事を考えながら、岡谷ICから新・中山道を直進して、諏訪大社・下社秋宮に向かいました。無事に現地に到着し、秋宮に参拝する事が出来たものの、境内の何処に行っても御神気は一切感じませんでした。

 

 

 

個人的には、社殿の四方を囲む御柱(おんばしら)から「氣」を感じなかった事に驚きました。この場合は、初めからパワーとエネルギーを持っていないか、単に今は機能しておらず休眠中であるかのどちらかです。

前者の場合は「諏訪の信仰自体が迷信」という事になってしまいますが、諏訪では至る所に呪術的な法則を見いだせるので、その可能性はありません。後者の場合は、昔は何らかの役割があったのに、既にその役割を終えている事を意味します。

神社は神に祈りを捧げる為の場所ですから、役割(目的)があるとするなら悪神の封印か、善神を降ろすかのどちらかです。例えば、神道地鎮祭では四方に斎竹(いみだけ)を立てて注連縄を張り、清浄な結界を作って神の御降臨を願います。

 

御柱と斎竹が同じかどうかは分かりませんが、昔は諏訪地方に伝わる特殊な神事があって、その神事では御柱が何らかの役割を担っていたのではないでしょうか。そして、その神事は歴史の中で失われて、形だけ残っているような気がします。

秋宮参拝後、その隣にあるホテル山王閣(2017年に閉業)という国民宿舎に宿泊しました。料理は美味でボリュームもあり、温泉は源泉かけ流しで泉質も良かったのですが、建物はやや老朽化している印象でした。

その夜、ふらっと部屋を抜け出して、秋宮の境内で気功をさせてもらいました。昼と同じで御神気は感じませんでしたが、風水的な「氣」のパワーは素晴らしく、地下に意識をかけて引っ張ると、膨大な「氣」を吸い上げる事が出来ました。

 

その時に、漠然と諏訪大社の役割が分かったような気がしました。調査不足でハッキリとした事は言えませんが、恐らく諏訪湖は止水の龍神であるミシャグジさまの御神体で、何らかの理由でタケミナカタとして祀る必要があったのだと思います。

そして御柱は、エネルギー変換器か、そのシンボルみたいなものだと思います。諏訪湖を信仰の対象にして四方を社殿で囲むのではなく、上社と下社の位置に二社づつ祀り、大祝(おおほうり)を神の依代(よりしろ)にした事にも、それなりの意味がある筈です。

大祝は諏訪家が世襲していましたが、明治政府がその制度を廃止し、諏訪家も断絶した為、もう真実が明らかになる事はありません。

 

翌日、諏訪大社・春宮に向かいました。でも、カーナビの指示通りに移動したら旧・中山道を走行する羽目になり、いつまで経っても春宮の駐車場に辿り着けなくて困ってしまいました。やむを得ず秋宮に戻って、新・中山道から春宮に向かいました。

何とか春宮に参拝しましたが、ここでも御神気は感じられませんでした。有名な浮島や、万治の仏仏、砥川の御手洗でも何も感じなかったので、諏訪とは縁が無いのかなと思いました。しかし、駐車場への帰り道で、いきなり強い御神気を感じました。

バッと振り向くと、高台の所に鳥居が見えました。間違いなく、御神気の出所はそこでした。これは呼ばれているなと思ったので、手すりの無いガタガタの石段を登って参拝しました。神社と御祭神の名は分かりませんが、水神と彫られた石碑がありました。

 

 

 

この水神社も、四方を御柱で囲まれていました。そして、この社は砥川を崇める為ではなく、鎮める為の社だと直感しました。砥川の浮島にはセオリツヒメを御祭神とする浮島社があるのですが、恐らくこの水神社とは表裏の関係にあると思いました。

そして、この水神社は他の場所から移転させられたか、元は別の役割を持っていたのではないかとも思いました。何故なら、この社の御神気(感情エネルギー)は「違う」とか「○○を知って欲しい」と訴えているような気がしてならなかったからです。

私は霊能者ではないので、御神気の解釈が間違っている可能性は高いです。ですから、むしろ霊感の強い人に間違いを指摘してもらいたいし、出来れば正しい解釈を教えてもらいたいです。霊感に自信がある方は、よろしければコメントをお願いします。

 

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