ことばのおきば

神秘行法と悟り

正義執行という課題

悟りの視点からすると、善悪正邪に絶対の基準は無く、全ては「人間が自分の都合で勝手に決めつけている事」となります。この世に絶対正義は存在し得ず、正義執行は独断と偏見による行動に過ぎません。

ですから、反対意見や、異なる価値観が生じるのは当然ですし、それはむしろ歓迎すべき事と言えます。大切なのは、お互いの意見に耳を傾け、正面から堂々と意見を戦わせ、より良いものを生み出そうとする事です。

でも、このような建設的な考え方をする人間は意外と少なく、殆どの人は自分の意見が通らないと駄々を捏ねたり、脅迫や嫌がらせをし始めます。対話の意思が無く、生産性も無い人と正面からやり合うと、終わりの見えない泥沼の戦いになってしまうのです。

 

私は対話の意思が無く、生産性も無いワガママな人が大嫌いなので、会社員時代はいつもケンカばかりしていました。何故なら、ワガママな人を放置すれば、必ず真面目な人が泣きを見るからです。

でも、実際にケンカが始まると、みんなで私の頭を抑えつけて、事態を収束させようとしてきました。何故なら、ワガママな人と全面戦争をするより、私に言って聞かせて黙らせる方が楽だからです。

この時、私に対して「ケンカするな」と言う人は、誰も守る気が無く、その場を凌げれば良いと考える人ばかりでした。そして、そういう人がワガママな人にロックオンされると、ひたすら我慢して助けを待つか、なりふり構わず逃げるかのどちらかでした。

 

問題を解決する為に動くのではなく、自分が潰されないように保身を図る人の、何と多い事か。でも、ワガママな人は手段を選ばないので、負ければ地獄を見ますし、勝っても無傷では済まないので「逃げずに戦え」とも言い難いんですよねぇ・・・。

一度だけ、元走り屋のパワハラ上司をほぼ無傷で追い落とせた事があるのですが、その時は正面から行かずに、私が知る「搦め手」を全て使いました。その「搦め手」は過去に私がやられたド汚い手段ばかりだったので、正直、勝っても後味が悪かったです。

「やはり卑怯な手を使う人間は、アタマがブッ壊れてて、人格も終わってんだなぁ」と思いましたが、自分より強い相手と戦わないといけないなら、確かに手段なんか選んでいられないな・・・とも思いました。

 

強い方が勝つのではなく、勝った方が強いと評価され、正しい方が勝つのではなく、勝った方が正しいと評価される。悟りの視点から見ても、これは揺るぎない事実です。生存競争とは、斯くも虚しく、不毛で、罪深い戦いなのです。

正義感は、不毛感と、罪悪感を薄めてくれますが、決してゼロにはなりません。ワガママな人はドヤ顔で「俺は全然悪くない!」と喚き散らしますが、そんな真似が出来るのは、生まれてこの方「罪の意識」を感じた事が無いからです。

罪悪感の欠如は「無反省」というサイコパスの特徴であり、心理学ではマキャベリズムやナルシシズムと共に「ダーク・トライアド」と呼ばれる、パーソナリティ特性とされています。

ja.wikipedia.org

 

 

ダーク・トライアドの特性は、生まれつきの脳の特性なので、親の教育方針や育った環境とは関係がありません。というか、どう教育した所で「真っ当な社会人」にはなり得ないので、あらゆる手段を使って「力を持たせないようにする」しかありません。

この世に正義があるとしたら、それは「ダーク・トライアドの特性を抑え込む事」だけが該当するように思います。でもそれは、暴力を使わせない、権力を持たせない、仲間を作らせないといった、少々クセのある対策になります。

若い頃に、この形で正義を執行した事があるのですが、その時は周囲の理解を全く得られず、私の左遷により半ば強引に事態を収束させられました。でも、その直後に職場が崩壊して、複数の社員が心を病み、一人の死者を出すに至っています。

 

要するに、会社の上層部は邪悪な人間を昇格させて放置した挙句、私が新人の頃にお世話になった先輩の人生を狂わせたり、死なせたりしたんです。でも、当時はパワハラという概念が浸透していなかったので、この殺人鬼を裁く事は出来ませんでした。

私を含む多数の被害者を出し、業務運航に大きな支障が出ても、会社の上層部は殺人鬼を庇い続けました。唯一の救いは、殺人鬼の邪悪さが明らかになり、職場で孤立した事くらいです。その殺人鬼も今年の四月に定年を迎え、会社から去っていきました。

送別会で「俺は最後まで役職を勤め上げた! 俺は勝ったんだ!」と言い放ち、周囲を唖然とさせたと聞きました。孤立した上司がチームワークを発揮できる訳が無いのに、最後の最後まで何を言ってんだろうなぁという感じです。

 

私がこの殺人鬼を仕留めていたら、自分も含めて何人も助ける事が出来た筈です。左遷後も似たようなパワハラ上司とケンカして、勝ったり負けたりしましたが、殺人鬼よりも邪悪で手強い人間は居ませんでした。

恐らく、私は来世でも邪悪な人間と対峙し、正義を執行すると思います。まあ、逆立ちしてもサイタマにはなれそうもないので、無免ライダーのポジションを狙っていきますよ。

 

 

 

沈黙の力

悟りに四向四果という階梯があるように、禅定にも「四禅」と呼ばれる階梯があります。四禅は冥想の深さと意識の段階を四段階に分けたものですが、ぶっちゃけ細かすぎて伝わらないんですよねえ。

四向四果が大悟と小悟の2つになっていったように、四禅も無心と無無心の2段階にした方が分かり易いです。何と言いますか、インド人は枝葉の部分に拘るし、妙に理屈っぽい所があるかと思えば、肝心な所が雑だったりするから困るんよ・・・。

因みに、初禅に入るには五下分結を断たなければいけないので、最低でも預流果に悟る必要があります。預流果と一来果は五下分結を滅する悟りで、不還果と阿羅漢果は五上分結を滅する悟りです。

 

悟った人は、それなりに「神通力」を発現させられるようになります。仏教では六神通などと大袈裟な言い方をしますが、実際には「智慧の働き」と「意識が持つ機能」といった感じです。

六神通を発現させた覚者は、観自在菩薩や、観音菩薩と呼称されます。仏像だと人間離れした容姿になっていますが、たかが預流果に悟ったくらいで、顔や手の数が増える訳ないっしょ(笑)

世の中に阿羅漢は少ないものの、たぶん預流果くらいなら数十万人に一人くらいの割合で存在すると思います。何をどうやっても誰も悟れないのでは、仏教が悟り方を説き続ける意味が無いですし。

 

仏教とは、釈迦世尊が遺したサマタ・ヴィパッサナー冥想によって、五下分結と五上分結の煩悩を断滅し、悟りに至ろうとする教えです。ただ、冥想で煩悩を断つのはかなり難しく、あまり現実的な方法とは言えません。

出家して僧院にこもり、日々冥想に明け暮れるなら別かも知れませんが、在家だとほぼ不可能と言って良いです。要するに、初期仏教・部派仏教は、出家修行者の為の教え(難行道)なんです。

それに対して、大乗仏教は在家修行者の為に「易行道」を説きます。僧侶は在家修行者を導くために厳しい修行を積みますが、在家修行者は宗祖が簡略化した行法を実践する事で悟りに至ろうとします。

 

でも、これらの教えは全て「方便」であって、いくら冥想に励んだり、祖師の教えを実践しても、それだけでは悟れません。悟りの条件は「エゴとの対峙」であって、自分や他人のエゴを心底嫌って、死ぬ気で戦う必要があるのです。

ですから、求道者には「嫌いなものは徹底的に嫌い抜くネガティブな強さ」と「自分よりも他人を思う優しさ」の二面性を併せ持つ、強烈な個性が必要になります。例えるなら「火の鳥」の我王みたいな、複雑な人格の持ち主ですね。

個性は情緒的成熟と共に育まれるものなので、成熟した精神(霊性の高さ)も必要になります。霊性は人生経験の積み重ねで高まるものなので、ハードな人生を心正しく生き抜くか、逃げられなくなるまで延々と輪廻転生を繰り返す必要があります。

 

霊性が低い人は、目の前で苦しむ人を見てもヘラヘラ笑っていられますが、ある程度まで霊性を高めると見過ごせなくなり、義憤から政治に関心を持つようになっていきます。

でも、特定の政治的思想に与すると、その思想に染まってしまって、自分でものを考えなくなります。この落とし穴は宗教にも存在する為、宗教と政治を必要以上に恐れて遠ざけ、結果的に「白紙の人間」になるという別の落とし穴もあるんですね。

宗教と政治というエゴの泥沼で、もがき苦しみながら答えを求めるという経験無くして、エゴ嫌いの素地が養われる事はありません。人生の苦闘から逃げた時点で求道者の資格を喪失し、悟りへの道は閉ざされます。

 

悟りへの道が閉ざされるという事は、無心(意識の深淵)からも遠ざかるという事です。意識の深淵から逃げようとすれば、無心とは対極にある「下劣な刺激」に依存するしかなくなります。

つまり、自分自身のエゴから逃げている人は、無意識に自分自身を貶(おとし)め、穢(けが)そうとするんです。底辺は崩れないので失うものが無いし、足りない物は奪えば良い。他人から軽蔑されても暴力で黙らせれば良いので、安心なんですね。

ここまで堕ちてしまった人は、しばらく放置するしかありません。出来る事と言えば、自分自身が堕落しないよう、反面教師にする事くらいです。それに、本物のドン底を経験すれば、少しは反省するかも知れませんし。

 

求道者とは「意識の深淵を覗そうとする者」であり、覚者は「深淵を生きる者」です。そして覚者は「時空の超越者」でもあります。何故なら、意識の深淵には時間と言う概念が無いからです。

意識の深淵と六神通には密接な関係があり、神仏などの高次存在も「深淵に生きる時空の超越者」です。まあ、肉体という「意識の拘束具」を失えば、誰もが神仏と同じ存在状態に戻るんですけどね。

因みに、アカシック・リーディング能力の基礎になる「時間の無い世界」に入れるのは、四向四果の不還果、四禅の第四禅に入れた人だけです。

 

反政府、反正義、反英雄

前回の記事で、私は思想も、誇りも、尊厳も無い日本社会に魅力を感じないと言いました。ただ、本当に絶望的なのは、一線を越えるまで「強制力」が働かないという所です。

国家が国民に命令して従わせる力を「公権力」と言うのですが、公権力の行使が人権侵害を引き起こす場合もあるとして、激しく反発する人達が居ます。この手の人達は「国家=暴力装置」とする極端な思想の持ち主であり、事実上の反政府勢力です。

極左の反政府勢力は、国内外の共産主義者と連携して「国家権力が強まれば国民は戦争に駆り出される」と喚き散らして、国家の力を削ごうとしてきます。でも、肝心なのは国家権力を弱める事ではなく、正しく使う事です。

 

その為に法整備を進めたり、第三者による代理人(オンブズマン)制度を設置するなど、出来る事はいくらでもあります。でも、反政府勢力は「革命を起こして政府を倒し、気持ち良くなりたい」だけで、その先までは考えていません。

結局、反政府勢力は、共産主義団体やテロリスト集団などの反社会勢力に吸収され、いいように操られて使い捨てられる運命にあります。それは暴走族に入った非行少年が、ケツ持ちヤクザに頭が上がらなくなるのと同じ構造です。

以前、SEALDsという学生運動がありましたが、勢力が拡大するにつれて、朝日新聞や、日本共産党民主党などがすり寄って来て、最後は共産党との関係が明らかになり、参加者が激減、解散という流れになりました。

 

暴力的な反政府勢力や反社会勢力に対して、個人や少数団体で対抗するのは困難です。国家の公権力が弱まれば反社に対抗出来なくなり、治安が低下します。極論すると「国家の主な役割は、国内の反社や、海外の敵国の頭を抑えつける事」とも言えるのです。

なのに公権力は低下の一途を辿り、警察でさえ反社に「お願い」する事しか出来なくなってきています。日本が犯罪者に優しく、外国のスパイにも寛大な国になったのは、公権力の恐怖を煽る反政府勢力を放置してきたからです。

マトモな思考回路を持つ人は、今の日本で政治家になろうとは思いません。何故なら、どんなに国の為に働いても、大多数の国民は無関心。常に反政府勢力に敵視され、メディアに叩かれるという、リスキーでストレスフルなお仕事だからです。

 

また、会社は国家の縮図なので、管理職と法曹三者の立場には似ている部分があります。例えば、社内の反社とも言える「働かないおじさん」に対して、管理職が働いてくれと「お願い」をする事しか出来ない所などは、そのまんま同じですよね。

私も長らく勘違いをしていたのですが、上司は部下への「強制力」を持っていないんですよ。部下は「職務放棄の権利」を持っていないけど、放棄した所で懲罰は無し。だから真面目な人を犠牲にするか、暴力という毒を以って毒を制するしか無いんです。

思うに、管理職が罰ゲーム化したのも、上司としての責任の重さに比べて、権限や裁量が無さ過ぎるからではないでしょうか。

 

確かに自民党は腐敗し切っていて、公権力を持たせるのは不安です。でも、故・安倍晋三氏は、あの裏金議員どもの頭を抑えつけて、国の舵取りをしていた訳ですよ。左翼連中は今でも安倍氏を悪魔扱いしていますが、奴らでは国の解体しか出来ません。

本来、自由とは怖いものであって、ルールや法律は「自由の恐怖」に対抗する為に作られたものです。そしてルールや法律は深い洞察と経験則から作られるべきもので、こうなって欲しいという理想をルールや法律にしても上手くは行きません。

畢竟、弱肉強食は世の習いであり、暴力が根底にある所は人間社会も野生とそんなに変わりません。敢えて辛辣な言い方をするなら、人間と動物の違いは「言い訳と責任転嫁をするだけの知恵があるかないか」くらいじゃないですかね。

 

遁世者の矜持

私が人間社会にウンザリしたのは、弱者を犠牲にしないと回らない歪な社会の仕組みを知り、しかもそれを変えられないと理解したからです。この場合の弱者とは、ルールや法律を守ろうとする真面目な人や、後先を考えて行動する慎重な人の事です。

現状では、後先考えずルールや法律を守らない反社会的な人物が強者として扱われたり、権力者の立場を手に入れる事が多いので、本来なら評価されるべき真面目さや慎重さが、易々と付け込める弱点になってしまうんですね。

逆に、低レベルな人間性は弱点にはならず、むしろ畏怖され、一目置かれる強みにさえなっています。でも、これでは真面目に生きている善人が報われず、社会も乱れる一方です。

 

悪党の理想は、太く短く、やりたいようにやって、人生の絶頂期にカッコ良く死ぬ事です。それは年老いて弱くなり、周囲から見下されて、己の無力さを味わって、じわじわと死んでいく「惨めさ」を何よりも恐れているという事でもあります。

ですから、悪党なりに筋を通そうとするならば、老いて弱くなる前に自らの意思で死を選ぶべきなのですが、大半が社会の善意に甘えて、更生や社会復帰を望みます。だから「生活保護を受給する元ヤクザ」みたいなのが居るんです。

それは元ヤンや前科者も同じで、彼らには本気で社会と敵対するだけの気概や矜持はありません。でも、連合赤軍のような極左テロリストにも奇妙な甘えが見え隠れするので、伝統精神の継承に失敗した人間は本当に惨めだなと思うのです。

 

誇りだけでは食べていけませんが、誇れるものが無い人生には生きる価値がありません。こういう事を言うと「寝たきり患者に誇りは無いのか!」と論理を飛躍させる人が出て来ますが、今しているのは「誇り無き悪党」についての話ですからね?

要するに、私は「誇り無き人生をダラダラ生きる、情けない人」が嫌いなんです。何故なら、私は「誇れるものを手に入れる為に、命懸けで戦い抜いた人」だからです。元々私には、何も誇れるものが無かったんですよ。

私の誇りと尊厳は、幼い頃に毒父が破壊し尽くしました。当時の私は本当に無力で惨めな存在で、誇張抜きで、泣く事と、媚びる事しか出来ませんでした。その惨めさを自覚したからこそ、奪われた誇りと尊厳を取り戻す為に「自分自身と」戦ったのです。

 

今の日本は「平和の為」と称して、自国民から誇りを奪い、腑抜けになるような教育(マインドコントロール)を施しています。例えば「一人の生命は全地球よりも重い」と言いますが、特定の個人の生命が、他の全生命の乗り物より重い訳が無いですよ。

人間社会が人命第一主義と人類平等を謳うなら、善人と悪人の扱いも平等にして、優しく真面目な人が損をする仕組みを正さなければいけないのに、実際は頭を抑えつけ易い方を黙らせているだけです。

思想も、誇りも、尊厳も無い日本社会に、私は魅力を感じません。だからと言って、世に仇を成したりはしませんが、もうこんな社会には属してあげません。会社を辞めて遁世する事を選んだのも、私なりに矜持があっての事です。