清濁思龍の雑話録

遁世と修道

一神教と多神教の共存は難しい

 

日本には無宗教の人が多いと言われています。自宅に神棚や仏壇を置かない世帯は全体の6割にもなるそうですが、神仏を完全否定する人は少数派で、殆どの人は宗教や信仰に関心が無いだけだと思います。

日本は宗教に対して良くも悪くも適当ですが、だからこそ他宗教や他宗派との軋轢が生じ難いというのはあると思います。でも、日本文化の根底には神道と仏教があり、殆どの国民が知らず知らずのうちに宗教の恩恵を受けています。

文化の違いは宗教の違いであり、宗教は信者の死生観に大きな影響を与えます。何故なら、宗教は世界の始まり終わりを説くもので、創世の神話死後の世界はセットだからです。

 

宗教は「人間は何処から来て、何処へ行くのか?」「人はどう生きるべきか?」という人生問題への答えであり、人生の指針です。日本土着の宗教である神道と、外来の宗教である仏教では死生観が異なりますが、先人の知恵と工夫によって神仏習合という形に落ち着きました。

現在、日本国は多文化共生社会を目指していて、異なる文化と宗教を持つ外国人を大量に受け入れようとしています。神道と仏教が共存したように、異国の宗教とも共存出来れば良いのですが、その雲行きは怪しいと言わざるを得ません。

来日する外国人は、創世の唯一神に従うキリスト教か、イスラム教徒が殆どです。これら一神教の教義は、多神教に属する神道や(大乗)仏教とは嚙み合わないので、どちらか一方が折れるか消滅するまで対立が続く可能性が高いのです。

 

キリスト教ユダヤ教から派生した宗教で、16世紀頃から宣教師が布教に来ていますが、国内の普及率は僅か1%に留まります。むしろ布教しに来たゴリゴリの宣教師が、日本文化に感化されて、ゆるふわな宗教観を持つようになるそうです。

イスラム教はキリスト教から派生した宗教で、移民や難民の増加と共に国内で信者を増やしています。同じ啓典の民であるユダヤ教徒キリスト教徒には寛容ですが、古代インド仏教を滅ぼしたり、多神教ヒンドゥー教徒と揉め事を起こしたりします。

日本も多神教の国家なので、イスラム教との相性は良くありません。実際、イスラム教徒が神社で暴れて賽銭箱を壊したり、価値観の違いから地域住民と衝突するなどのトラブルが発生しています。

 

一神教の信者達は、死後の世界や最後の審判については半信半疑でも、神の無謬性(むびゅうせい)だけは決して疑いません。神は絶対に正しく、その教えに従う我々もまた絶対に正しいという論理だけは、文字通り「死んでも」手放さないのです。

何を正しいと信じるかは、その人の勝手です。何故なら、この世に絶対正しいものなど存在しないからです。正しいとか間違いだとかは二元論的な思考の産物であって、飽くまでも人間の判断に過ぎません

でも、地獄の存在は疑うのに、神の無謬性を疑わないのは、自分の正しさに疑念を持つのが嫌だからではないでしょうか。自分は正しい、自分は間違っていないと信じたいから、神を信じているだけではないでしょうか。

 

キリスト教徒は今更ですが、イスラム教徒の移民や難民をそのまま国内に迎え入れれば、獅子身中の虫となるのは明らかです。日本政府は「大切に扱えば同化してくれる」と考えているようですが、それは非現実的な発想です。

外国人は異教徒なのですから、日本と同化する意思が無ければ共存は不可能です。そして日本と同化するという事は、これまで信じてきた宗教を捨てるのと同じです。これは逆も真なりで、我々が外国に移住するなら現地人と同化する必要があります。

単なる文化交流とは違って、外国への移住は相当な覚悟が必要です。外来種が生態系に悪影響を及ぼすように、異教の地で自国の流儀を貫く人ばかりになったら、移住先の国の文化を損ねてしまいます。

 

日本の宗教と文化を尊重し、共存する気が無い者は、ただの侵略者に過ぎません。侵略者を放置すれば、国の根底を成す宗教と文化が破壊され、長きに渡って祀ってきた神仏との関係も断絶します。

新たな宗教を生み出すのは簡単ですが、新しい文化を生み出すのは容易ではなく、数十年から百年単位の時間がかかります。調和を生み出すハイレベルな文化が育つまでは混乱と衝突が続き、民族全体の精神性も向上しません。

それは我が国の歴史を振り返ったり、マルクス主義に影響されて文化を捨て去った国の惨状を見れば分かります。自国の宗教と文化は子々孫々と受け継がれてきた叡智であり、我々の背景や土台となって下支えしてくれる掛け替えの無いものなのです。