清濁思龍の雑話録

遁世と修道

人間は進歩、傍観、捕食の3タイプに分けられる

 

人間は大別すると3つのタイプに分けられます。一つは「折角だから人間にしか出来ない事をしたい」と考える進歩的タイプ。もう一つは「自分の利益」以外に興味を示さない捕食者タイプ。最後の一つは「流されるまま」の傍観者タイプです。

実質的に人間社会を回しているのは進歩型ですが、常に善良であろうとするのでマインドコントロールに弱く、捕食型の餌食になる事が多いです。傍観者型は状況次第で進歩型、捕食型のどちらかに就きます。

基本的にイジメは捕食者型が発端となり、傍観者が片棒を担ぐ形で発生します。また、日本社会は事勿(ことなか)れ主義が蔓延していて、捕食者型を甘やかす構造になっているので、進歩型はスケープゴートにされないよう常に警戒しなければなりません。

 

捕食者型は生まれつきの悪人ではないので、環境と学習で精神性が変わります。育成環境に恵まれた捕食者型は誇り高く、イジメに興味を示しません。しかし、悪い環境に生まれ育った捕食者型は幼稚で卑しく、イジメを実益のある娯楽と捉えます。

捕食者型の精神的成熟を促すには、視野の狭さに由来する傲慢さが通用せず、無知や間違いが死に直結する過酷な環境と、そこで生き抜く術を教えられる父性の塊のような強い漢(おとこ)が必要です。

捕食者型はハンターや兵士としての資質がある為、優秀な指導者のもとで獣害の対応に当たらせたり、自衛隊員として国防の任に就かせれば、僅かながら精神的に成熟する可能性が出てきます。

 

因みに、捕食者型を指導する際に暴言を吐いたり、ビンタなどの中途半端な体罰を行うと、報復や復讐ばかり考えるようになります。こうなると独裁国家よろしく圧倒的な暴力で叩き潰さなければならなくなるので、あまり良い手とは言えません。

恐怖政治は型に嵌ったロボット人間を生産するだけで、イジメをするような心根の卑しい人間を更生させる事は出来ません。何故なら、人間は自力で「何か」を成し遂げる事でしか、自信と誇りを身に付けられないからです。

ハンターや兵士にもなれない捕食者型の人間は、たった独りで大自然の脅威と、迫り来るリアルな死の実感に打ち負かされて、愚かで幼稚な思い上がりを克服する必要があります。その上で生き残れば、少しは精神性を獲得するかも知れません。

 

高度な文明を持つ成熟した社会は、死の実感が乏しい社会でもあります。死の実感が無ければ生の実感も得られないので、次第に強い刺激を求めるようになります。進歩型や傍観者型は刺激を得る為に自分で動きますが、捕食者型にはその工夫が出来ません。

何故なら、捕食者型は捕食の対象である他人しか見ておらず、新しいものを生み出すよりも「奪う方が早い」と考えるからです。そして、奪う側である自分は強者であると思い込み、社会を破壊する事で刺激を得ようとします。

現代社会の問題点は、この3つのタイプの人間を一か所に集めて、平等に扱おうとする所にあります。進歩型や傍観者型は放置でOKですが、捕食者型は余計な問題を起こす前に鼻っ柱をヘシ折っておかねばなりません。

 

大切なのはタイプ別の住み分けであって、「みんな仲良し」という幻想ではありません。徹底的に住み分けを進めるか、社会全体で捕食者型の対処法を考え、有効な仕組みを作らない限り、イジメの問題は絶対に解決しません。

また、進歩型や傍観者型の人達も、自力で捕食者型を退けられるよう、心身を鍛えておく必要があります。武道も優れた自己鍛錬法ではありますが、残念ながら才能がものを言う世界なので万人向けとは言えません。

個人的にお勧めしたいのは、日本古来の山岳信仰に触れる事です。手始めに近隣の霊山に登拝して、慣れてきたら大峰山「西の覗き」や、四国の徒遍路(かちへんろ)などを経験してみると良いでしょう。

 


本物の宗教や、スピリチュアルの修行は、掛け値なしに命懸けです。私自身も茨城県御岩山や、奈良県笠置山に単独の早朝入山をした事がありますが、どちらも標高1000m未満の低山なのに命の危険を感じました。

私はその経験から、人間社会がどれだけ過保護で甘っちょろいかを知り、それと同時に大和魂の根本は山岳信仰古神道にあると理解しました。進歩型や傍観者型の人達が真摯に大自然の脅威と神秘に向き合えば、極めて大きな学びがあると断言できます。

登山が苦手なら、キャンプをするのも良いでしょう。真冬の雪中キャンプや、豪雨暴風の中でのキャンプは、十分過ぎるほど自然の脅威と命の危険を感じられます。命の脆さや儚さを身を以って知れば、命の大切さや有難さも分かる筈です。