清濁思龍の雑話録

遁世と修道

罪悪感はマインドコントロールの産物に過ぎない

 

我々日本人の多くは、大東亜戦争の侵略行為によって諸外国に多大なる迷惑をかけ、自国民の命もチリ紙のように使い捨てたという認識を持っています。その為、高学歴で教養のある人物ほど深い罪悪感を持ち、強く反戦平和を訴える傾向があります。

戦争は国家対国家の武力行使による外交であり、対話による問題解決が不可能と判断された場合に発生するものです。飽くまでも外交ですから、敵国が屈服した時点で戦争は終結し、敗戦国は戦勝国に有利な条件を飲まざるを得なくなります。

御存じのように大日本帝国大東亜戦争で敗北した時は、ポツダム宣言という降伏勧告を受諾させられて、アメリカの傀儡国家・属国として再出発する事になったのですが、その際にアメリカは日本国民に強烈な罪悪感を植え付けていきました。

 

この罪悪感はウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)というGHQ占領政策によるもので、極論すればアメリカ側の一方的な言い分に過ぎません。でも、アメリカは武力と経済力を背景に、その言い分をゴリ押ししてきたのです。

日本には日本の言い分があるのですから、本来ならハイハイとばかりに面従腹背でやり過ごせば良かったのですが、残念ながら高学歴で教養のある人物ほどWGIPのマインドコントロールに弱く、罪悪感から盲目的に反戦平和を訴えるようになりました。

自分なりに物を見て、勉強をして、自分の頭で考えた末に反戦平和を訴えるなら構いません。しかし、WGIPの影響が色濃く残る学校教育を真に受けて、自らの意思でマインドコントロールを強化している人も多いのです。

 

反戦平和や、人権・人道なる価値観は、絶対不可侵の真理ではありません。それと同様、社会的な一般常識や、学校での教育、親のしつけも絶対のものではありません。この世に絶対は存在しないというのが、唯一絶対の真理(空性・くうしょう)です。

この唯一絶対の真理を念頭に置くだけで、マインドコントロールへの抵抗力が強くなります。別に疑い深くなる必要は無く、単に物事を鵜呑みにしなければ良いだけなのですが、うぬぼれが強い人には、これが難しい。

何故なら、人間は認識能力の特性上、物事には絶対的な本質があると思い込む傾向があるからです。うぬぼれが強い人ほど視野が狭く、自分の考えが最も物事の本質に近いと決めつけてかかります。

 

うぬぼれと思い込みが対立を生み、持っている力が大きいほど衝突も激しくなります。衝突の際は力の強い方が勝ちますが、相手の弱点を突けば勝利はより確実なものとなり、受ける被害も軽くなります。

そして罪悪感は優しい心を持つ善人の急所なので、悪い人ほど罪悪感を刺激するような真似をしてきます。善良で素直な人ほど、罪悪感に付け込む形の情報操作やマインドコントロールに弱くなってしまうのです。

何らかの勢力に属したり、特定のイデオロギーを信奉すると、心地よい連帯感や、安心感、陶酔感などを得られますが、その代償としてマインドコントロールを受けやすくなります。

 

大切な事なので何度でも言いますが、この世に絶対はありません。善悪正邪は見方によってどうとでも変わるものであり、罪の意識は教育と言うマインドコントロールの産物に過ぎません。

空襲や原爆投下にしても、日本の立場だと民間人の大虐殺ですが、アメリカの立場だと戦争を終結させて双方の被害を食い止めた正義の行いです。どちらか一方の主張が正しいという事は無く、それ故にキチンと話し合わなければいけません。

話し合いの拒否は、自分が絶対に正しく、一歩も譲る気は無いと言っているのと同じです。罪を問うなら、これほどの罪はありません。例えるなら、うぬぼれや傲慢は地獄の扉を開く鍵であり、罪悪感は鍵穴です。

 

日本人は罪の意識を「善良さの証」と捉えがちですが、必ずしもそうとは限りません。果たして、悪意を持つ人間が罪悪感に付け込んできた時に、無条件で土下座して言いなりになるのは、本当に正しい事と言えるでしょうか?

むしろ、人の罪悪感に付け込むような真似をする人の方が卑劣であり、罪の意識を感じるべきだとは思いませんか? 本当に善良で在りたいと願うなら、普通の人よりも卑劣な言動に敏感でなければならないのです。

そして卑劣な人間ほど、人権や差別という大正義、錦の御旗を掲げて優位に立とうとするものです。この手の勢力に胡散臭さを感じられないのは、思考と感性が麻痺しているとしか言えません。

 

我々は日本人なのですから、日本人としての視点を最も大切にしなければなりません。もちろん外国の視点は尊重すべきものですが、優先順位は下になります。これは仕方のない事であり、外国人が自国を最優先に考える事も受け入れるしかありません

その上で、自分の正義を振りかざしたり、感情的になったりせずに、キチンと話し合う。この程度の事も出来ない人とは対話が成立しませんし、そもそもそんな人には対話の席に着く資格が無いのです。