清濁思龍の雑話録

遁世と修道

笑えないなら、笑わなくていい

 

いわゆる「お笑い」には質があり、精神的に幼い人間は低レベルな笑いを好み、成熟した人間はハイレベルな笑いを好みます。低レベルな笑いは見る者の悪感情を満たし、ハイレベルな笑いは見る者の心を豊かにします。

子供の間では、低レベルだろうが何だろうが笑いを取れる者が人気を集めますし、そのままスクールカーストの頂点に立つ事もあります。要するに、笑いを取れる者が強者なのです。

笑いを取れない人や、敢えて取ろうとしない人は「つまらない奴」と見做されますが、勉強やスポーツなどで勝負が出来るなら、それほど問題は生じません。問題が生じるのは、特技や強みが無い人の場合です。

 

そういう人は「イジリ」の対象になり易く、イジる側に神業レベルの技量と、決して一線を越えない分別が無い限り、そのまま「イジメ」に移行します。当然の事ながら、学生にそんな実力は期待できませんし、大人でもかなり難しいです。

つまり、本来なら「イジリ芸」など成立しないし、そんなものをTVなどのメディアで披露させる訳にはいかないのですが、イジられてナンボの「リアクション芸人」の登場により、イジリ芸を容認する空気が出来てしまいました。

低レベルな笑いを好む人が増えれば、迷惑系ユーチューバーのように悪質な笑いで大金を稼ぐ輩も出てきます。悪貨は良貨を駆逐すると言いますが、悪質な笑いは個人を堕落させ、社会全体の質を下げる遅効性の猛毒なのです。

 

笑いはストレスを吹き飛ばしてくれるので、ストレスフルな環境に居る人ほど笑いに飢えています。空腹なら何を食べても美味しいのと同じで、笑いに飢えていると質を問わなくなり、最後は下劣な笑いを提供する者に感謝し始めます。

とは言え、芸人側が笑いの質にこだわっても需要が無ければ売れないし、子供に笑いの良し悪しなど分かる筈もありません。良し悪しの分別は大人の責任であり、面白ければ何でもいいとか、金になれば何でもいいという考え方は無責任です。

日本社会には、無責任で幼稚な人間に理解を示し、成熟した人に必要以上の重責を負わせる文化があります。この悪しき文化を変えるのは困難ですが、ひとりひとりが笑いの質を見極めて、下劣な笑いにNOを突き付ける事なら出来る筈です。

 

笑いには「釣られ笑い」というものがあります。実際には面白いと思ってなくても、周囲の人が笑うのに釣られて自分も笑ってしまうのは、その根底に周囲との同調と共鳴という楽しさがあるからです。別に面白く無くても、楽しければ人は笑うのです。

しかし、悪質な笑いに釣られて笑うのは、ただの共犯です。悪質な笑いに敏感になれば、自然に「釣られ笑い」も減っていきます。同調・共鳴による「笑い合い」の楽しさは、優しさと思いやりのある場所に求めれば良い話です。

悪質な笑いには乗らず、無理に笑いを取ろうともしない。たったそれだけの事で、少しづつ世の中は良くなっていきます。中には「空気を読め」とか「つまらない奴だ」と暴言を吐いてくる人も居ますが、そんなつまらない人は相手にする価値がありません。

 

私自身「お前はつまらない」という言葉に傷つけられ、笑いを取ろうとしてコミュ障になった過去があるので、悪質な笑いの怖さは良く知っています。でも、キチンと自分の視点を持っていれば、十分に面白い話が出来る事も知っています。

無表情でも、ぶっきら棒でも、自分らしく生きている人は面白いのです。その面白さが分からない人は、つまらない人なのです。つまらない人だからこそ、他人を理解しようとしなかったり、無神経に傷つけたりするのです。

誰かを笑わせようとするあざとい態度は「私って面白いでしょ?!」というナルシシズムの発露か、上から目線の媚びに過ぎません。また、芸人の笑いは商品であり、誰かを傷つける商品は武器と考えるべきものです。

 

人間は気分が良ければ箸が転げても笑い、本当に気分が良くなれば感極まって泣くものです。今が楽しくないから笑いを求めるのであって、心が満たされている人は敢えて笑いを求めたりはしません。

心が満たされていれば、道端に咲く花に、道行く人など、あるがままに在るものが、ただあるがままに在るだけで、十分過ぎるくらい愉快だと気づけます。それが分からないから、対価や代償を払ってでも笑わせて貰いたくなるのです。

辛い事もあるけど、生まれて良かった、生きてて良かった。そう思いたいからこそ、人は笑いを求めるのかも知れません。しかし、求めた先にではなく、今ここに「本物の笑い」が在ると気づかなければ、死ぬまで心が満たされる事はありません。