清濁思龍の雑話録

遁世と修道

矛盾の極致と、矛盾の超越

外国では学生でも政治の議論をするようですが、日本国内で政治の話をすると嫌われます。政治の話をする人は面倒臭い性格の人が多く、思想信条の違いからケンカになったりもするので、なるべく避けた方が無難です。

また、日本人は全体的に繊細で傷つき易く、ちょっとした事で感情的になって相手の揚げ足を取ってやり込めようとしたり、いきなりブチ切れて罵倒し始めたりする人が多いので、あまり議論が成立しません。

議論とは、異なる価値観を持つ人達が、意見を戦わせる事を言います。議論の目的は、異なる意見を戦わせて、より良い答えを出す事です。この論法を弁証法と言います。弁証法は論理的思考のベースなので、学んでおいて損はありません。

 

弁証法による論理的思考は、何かを正しいと決めつけた瞬間に破綻します。何故なら、既に「正しい答え」が出ていると、他の意見は自動的に「全て間違い」になるので、より良い答え(アウフベーヘン・止揚)が出なくなるからです。

自分の意見が正しいと決めつけてかかると、議論ではなく相手を言い負かす為の口喧嘩になってしまいます。議論とケンカは全然違いますし、論理的思考は「何が正解か分からない」という所から始まり、必ず矛盾に行き着いて終わります。

人間の思考や判断は二元論に基づいている為、異なる意見の対立と拮抗を超越する事が出来ません。ある意味、論理的思考や哲学は、矛盾に行き着くまでの言葉遊び(ゲーム)であるとも言えます。

 

哲学はもちろん、政治の話も必ず矛盾に行き着いて終わるので、論理的思考によって絶対的な答え(真理)に到達する事は出来ません。それは人権だろうが弱者救済だろうが同じなので、答え(結論)ありきの議論は、議論とは言えません。

この視点に立つと、TV、新聞、WEBサイト、SNSなどのメディアは情報収集には使えるものの、専門家、思想家、活動家、コメンテーター、インフルエンサーの意見は全面的に無意味・無価値となり、1つも笑えないギャグに成り下がります。

もちろん裁判官や弁護士などの法曹関係者、政治家、会社の上司、学校の先生、両親の意見も同様に無意味・無価値となり、この世に参考になる意見など、ただの一つも無くなります。

 

面白いのは、釈迦や祖師方などの悟りに至った人の意見です。彼らは実質的に「何も言っていない」のですが、自分自身が結論ありきの愚かな考えをしている時に限って、有意義なアドバイスをしてくれたような気になれます。

一般人のインテリは矛盾に行き着いてもいませんが、覚者は矛盾を超えているので、このような差がついてしまうのです。真理の探究は常に矛盾の極致から始まり、答えの出ない煉獄の底をブチ抜いて終わります。この事を知らないと、矛盾を超えられません。

二元論的思考のループこそが「この世の地獄」であり、地獄の底を抜くまでは、自我といった本質的な部分に切り込めません。つまり、自意識過剰、ナルシシズムLGBTQ性嫌悪症などの問題は、二元論的思考では答えが出ないのです。

 

どんなに賢い人でも、これらの問題に取り組むと思考が混乱していき、最後には支離滅裂な事を言うようになります。ですから、自我や性などのアンタッチャブルな問題には、極力手を出さない方が良いのです。

禅僧が古則公案に参じたり、ラマナ・マハルシが「私は誰か?」と問うたのは、弟子たちが哲学的な思考の旅からアンタッチャブルな問題に行き着かないようにする為の、ある種の配慮と考えて間違いはありません。

哲学的思考は大切ですが、哲学では最終的な答えを出せません。思考は捨てる為に高めるものに過ぎず、求めるべきは思考の超越(悟り)です。ただし、思考の超越は、思考の土台が固まっていないと起きません。

 

哲学や政治に入れ込み過ぎると、悟りからは遠ざかります。しかし、哲学や政治に無関心だと思考の土台が固まらないし、思考に中毒した他人の意見に流されて利用される事もあります。

人間社会に答えはありません。だからこそ「全ては自己成長の為」と割り切って、人間社会を俯瞰で見るのが大切なのです。

 

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