清濁思龍の雑話録

遁世と修道

人間は進歩、傍観、捕食の3タイプに分けられる

 

人間は大別すると3つのタイプに分けられます。一つは「折角だから人間にしか出来ない事をしたい」と考える進歩的タイプ。もう一つは「自分の利益」以外に興味を示さない捕食者タイプ。最後の一つは「流されるまま」の傍観者タイプです。

実質的に人間社会を回しているのは進歩型ですが、常に善良であろうとするのでマインドコントロールに弱く、捕食型の餌食になる事が多いです。傍観者型は状況次第で進歩型、捕食型のどちらかに就きます。

基本的にイジメは捕食者型が発端となり、傍観者が片棒を担ぐ形で発生します。また、日本社会は事勿(ことなか)れ主義が蔓延していて、捕食者型を甘やかす構造になっているので、進歩型はスケープゴートにされないよう常に警戒しなければなりません。

 

捕食者型は生まれつきの悪人ではないので、環境と学習で精神性が変わります。育成環境に恵まれた捕食者型は誇り高く、イジメに興味を示しません。しかし、悪い環境に生まれ育った捕食者型は幼稚で卑しく、イジメを実益のある娯楽と捉えます。

捕食者型の精神的成熟を促すには、視野の狭さに由来する傲慢さが通用せず、無知や間違いが死に直結する過酷な環境と、そこで生き抜く術を教えられる父性の塊のような強い漢(おとこ)が必要です。

捕食者型はハンターや兵士としての資質がある為、優秀な指導者のもとで獣害の対応に当たらせたり、自衛隊員として国防の任に就かせれば、僅かながら精神的に成熟する可能性が出てきます。

 

因みに、捕食者型を指導する際に暴言を吐いたり、ビンタなどの中途半端な体罰を行うと、報復や復讐ばかり考えるようになります。こうなると独裁国家よろしく圧倒的な暴力で叩き潰さなければならなくなるので、あまり良い手とは言えません。

恐怖政治は型に嵌ったロボット人間を生産するだけで、イジメをするような心根の卑しい人間を更生させる事は出来ません。何故なら、人間は自力で「何か」を成し遂げる事でしか、自信と誇りを身に付けられないからです。

ハンターや兵士にもなれない捕食者型の人間は、たった独りで大自然の脅威と、迫り来るリアルな死の実感に打ち負かされて、愚かで幼稚な思い上がりを克服する必要があります。その上で生き残れば、少しは精神性を獲得するかも知れません。

 

高度な文明を持つ成熟した社会は、死の実感が乏しい社会でもあります。死の実感が無ければ生の実感も得られないので、次第に強い刺激を求めるようになります。進歩型や傍観者型は刺激を得る為に自分で動きますが、捕食者型にはその工夫が出来ません。

何故なら、捕食者型は捕食の対象である他人しか見ておらず、新しいものを生み出すよりも「奪う方が早い」と考えるからです。そして、奪う側である自分は強者であると思い込み、社会を破壊する事で刺激を得ようとします。

現代社会の問題点は、この3つのタイプの人間を一か所に集めて、平等に扱おうとする所にあります。進歩型や傍観者型は放置でOKですが、捕食者型は余計な問題を起こす前に鼻っ柱をヘシ折っておかねばなりません。

 

大切なのはタイプ別の住み分けであって、「みんな仲良し」という幻想ではありません。徹底的に住み分けを進めるか、社会全体で捕食者型の対処法を考え、有効な仕組みを作らない限り、イジメの問題は絶対に解決しません。

また、進歩型や傍観者型の人達も、自力で捕食者型を退けられるよう、心身を鍛えておく必要があります。武道も優れた自己鍛錬法ではありますが、残念ながら才能がものを言う世界なので万人向けとは言えません。

個人的にお勧めしたいのは、日本古来の山岳信仰に触れる事です。手始めに近隣の霊山に登拝して、慣れてきたら大峰山「西の覗き」や、四国の徒遍路(かちへんろ)などを経験してみると良いでしょう。

 


本物の宗教や、スピリチュアルの修行は、掛け値なしに命懸けです。私自身も茨城県御岩山や、奈良県笠置山に単独の早朝入山をした事がありますが、どちらも標高1000m未満の低山なのに命の危険を感じました。

私はその経験から、人間社会がどれだけ過保護で甘っちょろいかを知り、それと同時に大和魂の根本は山岳信仰古神道にあると理解しました。進歩型や傍観者型の人達が真摯に大自然の脅威と神秘に向き合えば、極めて大きな学びがあると断言できます。

登山が苦手なら、キャンプをするのも良いでしょう。真冬の雪中キャンプや、豪雨暴風の中でのキャンプは、十分過ぎるほど自然の脅威と命の危険を感じられます。命の脆さや儚さを身を以って知れば、命の大切さや有難さも分かる筈です。

日本仏教界のタブーについて

 

教育および社会化という名のマインドコントロールからの解放は、人生における最優先課題です。何故なら、マインドコントロールの影響下にある人は必要以上にタブー(禁忌)を恐れ、踏み込んだ思考が出来なくなるからです。

タブーは思考停止のスイッチですが、社会的、因習的なタブーは集団や組織を維持する為に必要な取り決めでもあります。なので、集団や組織の頂点に立つ者は、タブーを犯そうとする者を断罪する責任を持ちます。

しかし、タブーの所為で理不尽な思いをさせられて、それがどうしても納得できないし許せないという人は、リスクを承知でタブーに踏み込まざるを得なくなります。そしてそれは、人を飼い慣らす為の「優しい嘘」が暴かれる瞬間でもあります。

 

因みに、日本国内における最大最悪のタブーには、ある伝統仏教の宗派が絡んでいます。その宗派の宗祖は教科書に載るほど有名で、派生した新宗教や新宗派も沢山あるのですが、どの団体も例外なく攻撃的です。

そもそも宗祖が極めて攻撃的で、他宗教や他宗派を徹底的にこき下ろし、完全否定する事で力をつけた人物でした。その教義に忠実であろうとすれば、教団や個々の弟子達も攻撃的にならざるを得ないのです。

全ての宗教宗派はカルト化する可能性を持ちますが、この宗派は成り立ちからしてカルト化以外の選択肢が存在しません。宗祖は僧侶のなりをした活動家であり、派生する新宗派や新宗教は悉(ことごと)く邪宗邪教です。

 

この宗派を論破するのは簡単です。何故なら、大恩教主・釈迦牟尼世尊は、直筆の経典を一つも残していないからです。全ての仏教経典は世尊入滅後に編纂・結集されたものですし、そもそも無我という真理はその特性上、言語で表現する事が出来ません。

ですから、特定の経典のみが真理を表すという説は根本から間違っていますし、真理そのものではない経典をいくら誦しても悟れません。そもそも信仰の対象が間違っているので、経典の解釈も恣意的なものにしかなりません。

最も有名な経典である般若心経や、口伝のパーリ聖典を含めて、現存する経典は全て偽経(ぎきょう)です。しかし、自らが悟れば経典が伝えようとしている事も分かりますし、宗派の別は表現方法の違いに過ぎないという事も分かるようになります。

 

しかし、この宗派だけは完全に異質で、悟りの視点から見ても同意出来る所が一つもありません。たまたま隆盛の条件が揃って現代まで受け継がれ、伝統宗教と見做されるようになったというだけで、本質的には仏教でさえありません。

この宗派が存続する限り、我々は僧侶のなりをした活動家を歴史上の偉人と見做し、形だけの仏教寺院で間違った教えが説かれ、犯罪スレスレの暴力的な手口で信者を増やすのを黙認しなければなりません。

過去に私は数名の信者と議論をしましたが、次に会った時は全員、洒落にならないレベルの洗脳を受けていました。哀れにも目に狂気を宿し、口から泡を吹きながら「何でそんな事がわかるんだぁあ!」と喚くだけのロボットになり果てていたのです。

 

仏教に関心が無い人も油断は出来ません。何故ならこの宗派は教義上、絶対に国教化を諦められないからです。その為、教団側が信者達に会社での出世を命じ、時間をかけて自分の部下を洗脳し、入信させようとする事さえあります。

因みに、会社員時代の私の上司が、この宗派の信者でした。その元上司はとにかく言動がチグハグで、とても常識的な行動をするかと思えば、人間性を疑うほど無神経な所もあり、時には意味不明な謎理論で他人を攻撃する事もありました。

でも、その常識的な部分は宗派の教えに従っていただけで、中身は選民意識まる出しの自惚れ屋でした。意味不明な謎理論にしても、調べてみたらその宗派の根本教義そのまんまでした。

 

つまり、元上司の言動のチグハグさは、そのまんま宗派の個性だったのです。そうなった原因は、他の宗教や思想とは決して相容れない特異な教義を、解釈の変更や、理屈の付け足しによって、穏健な教義に見せかけようとした所にあります。

この宗派のカルト性は公然の秘密ですが、国内でその事について論じるのはタブーです。何故なら、学校や会社のみならず、政治、経済、法律などの分野にも信者が居て、常に目を光らせているからです。

タブーに触れて信者を怒らせたら、すぐに教団ぐるみの嫌がらせが始まります。その宗派にとって嫌がらせは信仰心の表れであり、宗祖が示した仏道そのものです。こんなクレイジーな教団が相手では、一個人などひとたまりもありません。

 

もし国が本気でカルト宗教や危険思想の芽を摘もうとすれば、必ずこの宗派とも敵対する事になります。しかし、そうなればいつ終わるとも知れない不毛な戦いが続くでしょう。だからこそタブーなのです。

我が国の司法が犯罪者やイジメの加害者に甘いのも、この宗派の分派が「人権」という錦の御旗・大正義を隠れ蓑にしているからです。その為、人権思想そのものがタブーと化しており、国民を思考停止させる原因になり果てています。

人権思想は一神教キリスト教圏で発生したもので、多神教ベースの日本文化とは本質的にかみ合いません。ですから、本来なら人権思想を日本流にアレンジしなければならないのですが、それはタブーを犯す事になるので誰も手を付けたがりません。

 

まるで陰謀論のような話ですが、それだけ伝統仏教の宗派は日本文化に深く根を下ろしていて、全国民が無意識レベルで影響を受けているという事です。しかし、件の宗派は信者を使って様々な分野に干渉しているので、無視する訳にもいきません。

これは何百年も解決しなかった問題ですし、恐らく今後もずっと国が抱えていく闇で在り続けるでしょう。でも、無我という真理は言語では表現できず、現存する経典は全て偽経(ぎきょう)である事を知らしめれば、少しはこの宗派の勢いを削ぐ事が出来ます。

何だか他の宗派にもダメージがいきそうな話ですが、祖師方はそんな事は百も承知で教えを説かれていますので、全く問題ありません。実際、私自身は浄土真宗の人間ですが、浄土三部経偽経と言われても痛くも痒くもありません。

 

無我と経典についての話は、雑学や一般教養の範囲に収まります。だから安心して日常会話や、SNS、ヤフコメ等で広めてください。でも、私はもう二度とあんな連中の相手をしたくないので、この記事を直リンクする事は切にお控え願います。

罪悪感はマインドコントロールの産物に過ぎない

 

我々日本人の多くは、大東亜戦争の侵略行為によって諸外国に多大なる迷惑をかけ、自国民の命もチリ紙のように使い捨てたという認識を持っています。その為、高学歴で教養のある人物ほど深い罪悪感を持ち、強く反戦平和を訴える傾向があります。

戦争は国家対国家の武力行使による外交であり、対話による問題解決が不可能と判断された場合に発生するものです。飽くまでも外交ですから、敵国が屈服した時点で戦争は終結し、敗戦国は戦勝国に有利な条件を飲まざるを得なくなります。

御存じのように大日本帝国大東亜戦争で敗北した時は、ポツダム宣言という降伏勧告を受諾させられて、アメリカの傀儡国家・属国として再出発する事になったのですが、その際にアメリカは日本国民に強烈な罪悪感を植え付けていきました。

 

この罪悪感はウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)というGHQ占領政策によるもので、極論すればアメリカ側の一方的な言い分に過ぎません。でも、アメリカは武力と経済力を背景に、その言い分をゴリ押ししてきたのです。

日本には日本の言い分があるのですから、本来ならハイハイとばかりに面従腹背でやり過ごせば良かったのですが、残念ながら高学歴で教養のある人物ほどWGIPのマインドコントロールに弱く、罪悪感から盲目的に反戦平和を訴えるようになりました。

自分なりに物を見て、勉強をして、自分の頭で考えた末に反戦平和を訴えるなら構いません。しかし、WGIPの影響が色濃く残る学校教育を真に受けて、自らの意思でマインドコントロールを強化している人も多いのです。

 

反戦平和や、人権・人道なる価値観は、絶対不可侵の真理ではありません。それと同様、社会的な一般常識や、学校での教育、親のしつけも絶対のものではありません。この世に絶対は存在しないというのが、唯一絶対の真理(空性・くうしょう)です。

この唯一絶対の真理を念頭に置くだけで、マインドコントロールへの抵抗力が強くなります。別に疑い深くなる必要は無く、単に物事を鵜呑みにしなければ良いだけなのですが、うぬぼれが強い人には、これが難しい。

何故なら、人間は認識能力の特性上、物事には絶対的な本質があると思い込む傾向があるからです。うぬぼれが強い人ほど視野が狭く、自分の考えが最も物事の本質に近いと決めつけてかかります。

 

うぬぼれと思い込みが対立を生み、持っている力が大きいほど衝突も激しくなります。衝突の際は力の強い方が勝ちますが、相手の弱点を突けば勝利はより確実なものとなり、受ける被害も軽くなります。

そして罪悪感は優しい心を持つ善人の急所なので、悪い人ほど罪悪感を刺激するような真似をしてきます。善良で素直な人ほど、罪悪感に付け込む形の情報操作やマインドコントロールに弱くなってしまうのです。

何らかの勢力に属したり、特定のイデオロギーを信奉すると、心地よい連帯感や、安心感、陶酔感などを得られますが、その代償としてマインドコントロールを受けやすくなります。

 

大切な事なので何度でも言いますが、この世に絶対はありません。善悪正邪は見方によってどうとでも変わるものであり、罪の意識は教育と言うマインドコントロールの産物に過ぎません。

空襲や原爆投下にしても、日本の立場だと民間人の大虐殺ですが、アメリカの立場だと戦争を終結させて双方の被害を食い止めた正義の行いです。どちらか一方の主張が正しいという事は無く、それ故にキチンと話し合わなければいけません。

話し合いの拒否は、自分が絶対に正しく、一歩も譲る気は無いと言っているのと同じです。罪を問うなら、これほどの罪はありません。例えるなら、うぬぼれや傲慢は地獄の扉を開く鍵であり、罪悪感は鍵穴です。

 

日本人は罪の意識を「善良さの証」と捉えがちですが、必ずしもそうとは限りません。果たして、悪意を持つ人間が罪悪感に付け込んできた時に、無条件で土下座して言いなりになるのは、本当に正しい事と言えるでしょうか?

むしろ、人の罪悪感に付け込むような真似をする人の方が卑劣であり、罪の意識を感じるべきだとは思いませんか? 本当に善良で在りたいと願うなら、普通の人よりも卑劣な言動に敏感でなければならないのです。

そして卑劣な人間ほど、人権や差別という大正義、錦の御旗を掲げて優位に立とうとするものです。この手の勢力に胡散臭さを感じられないのは、思考と感性が麻痺しているとしか言えません。

 

我々は日本人なのですから、日本人としての視点を最も大切にしなければなりません。もちろん外国の視点は尊重すべきものですが、優先順位は下になります。これは仕方のない事であり、外国人が自国を最優先に考える事も受け入れるしかありません

その上で、自分の正義を振りかざしたり、感情的になったりせずに、キチンと話し合う。この程度の事も出来ない人とは対話が成立しませんし、そもそもそんな人には対話の席に着く資格が無いのです。

 

笑えないなら、笑わなくていい

 

いわゆる「お笑い」には質があり、精神的に幼い人間は低レベルな笑いを好み、成熟した人間はハイレベルな笑いを好みます。低レベルな笑いは見る者の悪感情を満たし、ハイレベルな笑いは見る者の心を豊かにします。

子供の間では、低レベルだろうが何だろうが笑いを取れる者が人気を集めますし、そのままスクールカーストの頂点に立つ事もあります。要するに、笑いを取れる者が強者なのです。

笑いを取れない人や、敢えて取ろうとしない人は「つまらない奴」と見做されますが、勉強やスポーツなどで勝負が出来るなら、それほど問題は生じません。問題が生じるのは、特技や強みが無い人の場合です。

 

そういう人は「イジリ」の対象になり易く、イジる側に神業レベルの技量と、決して一線を越えない分別が無い限り、そのまま「イジメ」に移行します。当然の事ながら、学生にそんな実力は期待できませんし、大人でもかなり難しいです。

つまり、本来なら「イジリ芸」など成立しないし、そんなものをTVなどのメディアで披露させる訳にはいかないのですが、イジられてナンボの「リアクション芸人」の登場により、イジリ芸を容認する空気が出来てしまいました。

低レベルな笑いを好む人が増えれば、迷惑系ユーチューバーのように悪質な笑いで大金を稼ぐ輩も出てきます。悪貨は良貨を駆逐すると言いますが、悪質な笑いは個人を堕落させ、社会全体の質を下げる遅効性の猛毒なのです。

 

笑いはストレスを吹き飛ばしてくれるので、ストレスフルな環境に居る人ほど笑いに飢えています。空腹なら何を食べても美味しいのと同じで、笑いに飢えていると質を問わなくなり、最後は下劣な笑いを提供する者に感謝し始めます。

とは言え、芸人側が笑いの質にこだわっても需要が無ければ売れないし、子供に笑いの良し悪しなど分かる筈もありません。良し悪しの分別は大人の責任であり、面白ければ何でもいいとか、金になれば何でもいいという考え方は無責任です。

日本社会には、無責任で幼稚な人間に理解を示し、成熟した人に必要以上の重責を負わせる文化があります。この悪しき文化を変えるのは困難ですが、ひとりひとりが笑いの質を見極めて、下劣な笑いにNOを突き付ける事なら出来る筈です。

 

笑いには「釣られ笑い」というものがあります。実際には面白いと思ってなくても、周囲の人が笑うのに釣られて自分も笑ってしまうのは、その根底に周囲との同調と共鳴という楽しさがあるからです。別に面白く無くても、楽しければ人は笑うのです。

しかし、悪質な笑いに釣られて笑うのは、ただの共犯です。悪質な笑いに敏感になれば、自然に「釣られ笑い」も減っていきます。同調・共鳴による「笑い合い」の楽しさは、優しさと思いやりのある場所に求めれば良い話です。

悪質な笑いには乗らず、無理に笑いを取ろうともしない。たったそれだけの事で、少しづつ世の中は良くなっていきます。中には「空気を読め」とか「つまらない奴だ」と暴言を吐いてくる人も居ますが、そんなつまらない人は相手にする価値がありません。

 

私自身「お前はつまらない」という言葉に傷つけられ、笑いを取ろうとしてコミュ障になった過去があるので、悪質な笑いの怖さは良く知っています。でも、キチンと自分の視点を持っていれば、十分に面白い話が出来る事も知っています。

無表情でも、ぶっきら棒でも、自分らしく生きている人は面白いのです。その面白さが分からない人は、つまらない人なのです。つまらない人だからこそ、他人を理解しようとしなかったり、無神経に傷つけたりするのです。

誰かを笑わせようとするあざとい態度は「私って面白いでしょ?!」というナルシシズムの発露か、上から目線の媚びに過ぎません。また、芸人の笑いは商品であり、誰かを傷つける商品は武器と考えるべきものです。

 

人間は気分が良ければ箸が転げても笑い、本当に気分が良くなれば感極まって泣くものです。今が楽しくないから笑いを求めるのであって、心が満たされている人は敢えて笑いを求めたりはしません。

心が満たされていれば、道端に咲く花に、道行く人など、あるがままに在るものが、ただあるがままに在るだけで、十分過ぎるくらい愉快だと気づけます。それが分からないから、対価や代償を払ってでも笑わせて貰いたくなるのです。

辛い事もあるけど、生まれて良かった、生きてて良かった。そう思いたいからこそ、人は笑いを求めるのかも知れません。しかし、求めた先にではなく、今ここに「本物の笑い」が在ると気づかなければ、死ぬまで心が満たされる事はありません。

 

絶望と無気力から立ち直るには

 

出会った四年前に比べれば、確実に茶柱さんの鬱症状は軽くなってきています。しかし、相変わらず無気力で、生活維持に必要な料理や掃除を継続して行う事が出来ず、ちょっとした事で激しく落ち込んで動けなくなったり、人生を投げ出そうとします。

また、自信の無さと依頼心の高さから問題解決能力がゼロに等しく、トラブルが発生すると高確率でパニックになります。このような状態では一般就労など不可能ですから、やむを得ず障害年金を受給し、就労支援B型の作業所に通っています。

メイン作業はPCリモートですが、週一の通所も含まれています。しかし、茶柱さんは自身の体調と時間の管理が苦手なので、毎回遅刻しそうになってヒステリーを起こします。

 

地域の社会福祉法人や、障碍者支援センターとも連携を取っていますが、他の利用者に比べれば茶柱さんの障碍は程度が軽く、私という同居者も居る所為か、何かと後回しにされがちです。

とは言え、24時間のワンオペ介助は負担が大きく、ついため息が出てしまう事もあります。でも、そのため息を茶柱さんに聞かれるとパニックが始まるので、迂闊な真似は出来ません。

本来、私の役割は偽覚者・伊勢菊理の呪詛を解く所までで、その役割もとっくの昔に終わっています。鬱病は専門外なので、医療と福祉に繋いだ時点でお役御免の筈ですが、未だにルームシェアを続けているのは、今はまだ繋いだ手を離せないからです。

 

医療と福祉は決められた事しか出来ないし、毒親が居る実家にも帰せません。しんどいからと言って私が手を離したら、茶柱さんは確実に野垂れ死にします。因みに、野垂れ死にの「野垂れ」は当て字で、本来は「這う、または倒れる」という意味だそうです。

日本は先進国を標榜しており、ハイレベルな医療と福祉を誇っていますが、病気か何かで働けなくなると、急に野垂れ死にする可能性が出てきます。働けなくなっても貯金があれば生きていけますが、お金が無くなった時点で詰んでしまいます。

思うに、国内のブラック企業が駆逐されないのは、誰もが潜在的に持っている「野垂れ死にの恐怖」に付け込んでいるからではないでしょうか? もし農耕や狩猟、採集での自給自足が簡単に出来るなら、自殺者の数は大幅に減るのではないでしょうか?

 

私は幼少期に毒親から虐待され、学校ではイジメられ、社会に出てからはチンピラ社員とモンスター・クレーマーに悩まされました。また、奴等が際限なく生み出すブルシット・ジョブに忙殺されて、何度も絶望的な状況に立たされました。

幸いにも私は独身で、それなりに貯金もあったので、退職して隠遁生活に入れました。だからと言って、競争で成り立つ資本主義社会の歪(いびつ)さと、ハンディキャップを持つ人達の苦しみから目を逸らす事は出来ません。

発達障碍は社会的に理解されつつあるので、茶柱さんも年金を受給する事が出来ましたが、毒親問題への理解は殆ど進んでいません。その証拠に、東京・歌舞伎町に身を寄せる「トー横キッズ」は晒し物にされ、歌舞伎町からも排除されてしまいました。

 

トー横キッズは家庭で十分な愛情を注がれておらず、社会に適応する為に必要な教育も受けていないので、精神的に幼稚です。その為ストレス耐性も幼児並みに低く、辛い事や嫌な事があると逃げ出して、楽な方に流れていきます。

若い女子には楽に稼ぐ方法があるので、その金に悪い仲間や、出来損ないの大人モドキが群がります。生きる為とは言え、一度でも悪党の支配下に入ると、そう簡単には抜け出せなくなります。それはキッズも薄々分かっているようです。

絶望の未来と生き辛さから一時的にでも逃れようと、リストカットや薬物の過剰摂取をするキッズが大勢居ますし、酷い環境で生き残る為に悪事に手を染める愚かなキッズも居ます。残念ながら、ここまで堕ちてしまうと、一般人の手には負えません。

 

社会の最底辺からキッズを救う方法はただ一つ、成熟した大人が手を差し伸べる事のみです。信頼できる大人との出会いがキッズに気力を与え、絶望の淵から救い出します。心温もる信頼関係こそが、絶望と無気力の特効薬なのです。

当然の事ながら、身勝手な悪党や、自分の事で精一杯な人には、この特効薬を処方する事は出来ません。苦しむ他人を救えるのは、同じ苦しみを乗り越えた人か、生まれつきハイスペックで他人を支える余裕がある人だけです。

茶柱さんも以前は酷い状態でしたが、少なくとも今は絶望していないし、死にたいとも思わなくなったそうです。今の私では力不足で生きる気力を与えるまでには至りませんが、それ故に精進と工夫を続けなければいけません。

 

偽覚者に騙された茶柱さんは私でなければ救えませんが、私では悪党の支配下にあるトー横キッズを救えません。悪党よりも立場が強い国家機構の人間ならばキッズを救えますが、マインドコントロールに苦しむ茶柱さんを救う事は出来ません。

私と国家機構の人間では、問題を乗り越える力と、与えられる希望の種類が違うので、救える相手も違います。この世には成熟した自分だけに救える人が居て、成熟を拒否したり、成熟に失敗すれば救えなくなります。

であるならば、成熟は即ち善であり、未熟さは悪と考えても間違いではないと思います。