前回、今の日本に最も必要なのは、抹香臭い宗教や、胡散臭いスピリチュアルに代わる、洗練された「道」だと言いました。神道と仏教は文化という形にまで昇華し、国内のローカル・ルールやマナーに多大な影響を与えています。
企業のマニュアル化が進む前は、一般常識やビジネスマナーを身に付ける過程に、精神修養の要素が含まれていました。少し前の時代までは、社会の荒波に揉まれる事が「公共心」を養う修行になっていたのです。
公共心とは、社会全体を見て、社会の為に尽くし、連帯の大切さを知る事です。これぞまさに「日本人の精神」そのものと言った感じですが、戦後の個人主義、成果主義は、この精神とは噛み合わないんですね。
戦中・戦後世代は野生の掟と公共心が共存している世代でしたが、団塊世代は左翼メディアの影響で個人主義、成果主義に振り切れて公共心に乏しく、バブル世代に至っては公共心を持たない人が非常に多かったです。
私は氷河期世代ですが、同世代はアルバイトばかりで後輩と呼べる社員が居らず、部署内での立場が一番下の時期が長かったんです。因みに、10年後に来た新人はミレニアル世代の不良で、仕事は早いけど自己中なロクデナシでした。
不良に公共心を説くほど無意味な事は無く、結局はバブル世代の大馬鹿上司×2と結託して私を攻撃したり、私の左遷後は好き勝手に振る舞って、所属部署を崩壊させるなどの悪行を積み重ねています。
弱い不良は淘汰されますが、強い不良は似たような奴とつるんで、幅を利かせてブイブイゆわせます。後輩の不良もそこそこ出世しましたが、評判最悪のサイコパス上司として疎(うと)まれていると聞きました。
まあ、職場を崩壊させた過去を持ち、いいトシこいて公共心の欠片も無く、部下の育成も出来ない上司なんか要らないので、そのうち必ずコケますよ。何せ、あの会社は降格処分こそ無いけれど、社員を使い潰す事に抵抗が無いので。
因みに、公共心を持たない社員が増えた会社は、容赦なくマニュアル化を進める傾向があります。そうしないと仕事が回らないからですが、そんな会社で働いていたら、いつまで経っても公共心が身に付きません。
仏教の僧侶や、神道の神官、ビジネスの専門家も公共心の重要性を説きますが、私が知る限り、実用性が低く、聞こえの良い事ばかりを言っています。それは「本音が言えず、語れない時代だ」という事です。
私個人の意見としては、今の日本社会では敢えて利己的に振る舞って、プライベートで公共心を養う方が良いと思っています。何故なら、下手に会社で公共心を見せると、下衆な輩が寄って集って、こちらの善意をしゃぶり尽くそうとするからです。
この先、移民の受け入れが進めば、確実に「公共心は内に秘めるもの」という扱いになります。何故なら、共産主義者は気高い振る舞いを「ブルジョワの証」と考えるからです。
中共が文化大革命を起こしたり、カンボジアのポル・ポト政権が知識層を皆殺しにしたのは、プロレタリアート(労働者)は下賤な存在で当たり前という、実に奇妙な考えがあるからです。中国の民度が低下する一方なのも、その為です。
共産主義の影響を受けた日本の左翼も、個人の自由だの、平等だのと言いながら、心の底では公共心を否定しています。不良は日本文化ではなく、社会の底辺で生き残る知恵である不良文化の継承者なので、ほぼ同類と考えて良いでしょう。
とは言え、日本は神武天皇の時代から戦争ばかりしてきた国ですから、平和のうちに文化の継承を行えた時代など殆どありません。神社仏閣にしても、過去に焼き討ちされていない所の方が少ないくらいです。
大切なのは「文化を継承しろ!」とデモをしたり、武力闘争や、権力闘争で勝ち抜く事でも無く、一つでも文化を後世に伝える手段を増やす事です。言って分からん奴には何をやっても無駄ですから、分かる人にキチンと伝達する努力と工夫が必要なのです。
伝達の努力と工夫が「道」となり、後進の歩みを助けます。社会に「自分が生きた爪痕」を残すなら、こういう形の方が良いでしょうね。