悟りに四向四果という階梯があるように、禅定にも「四禅」と呼ばれる階梯があります。四禅は冥想の深さと意識の段階を四段階に分けたものですが、ぶっちゃけ細かすぎて伝わらないんですよねえ。
四向四果が大悟と小悟の2つになっていったように、四禅も無心と無無心の2段階にした方が分かり易いです。何と言いますか、インド人は枝葉の部分に拘るし、妙に理屈っぽい所があるかと思えば、肝心な所が雑だったりするから困るんよ・・・。
因みに、初禅に入るには五下分結を断たなければいけないので、最低でも預流果に悟る必要があります。預流果と一来果は五下分結を滅する悟りで、不還果と阿羅漢果は五上分結を滅する悟りです。
悟った人は、それなりに「神通力」を発現させられるようになります。仏教では六神通などと大袈裟な言い方をしますが、実際には「智慧の働き」と「意識が持つ機能」といった感じです。
六神通を発現させた覚者は、観自在菩薩や、観音菩薩と呼称されます。仏像だと人間離れした容姿になっていますが、たかが預流果に悟ったくらいで、顔や手の数が増える訳ないっしょ(笑)
世の中に阿羅漢は少ないものの、たぶん預流果くらいなら数十万人に一人くらいの割合で存在すると思います。何をどうやっても誰も悟れないのでは、仏教が悟り方を説き続ける意味が無いですし。
仏教とは、釈迦世尊が遺したサマタ・ヴィパッサナー冥想によって、五下分結と五上分結の煩悩を断滅し、悟りに至ろうとする教えです。ただ、冥想で煩悩を断つのはかなり難しく、あまり現実的な方法とは言えません。
出家して僧院にこもり、日々冥想に明け暮れるなら別かも知れませんが、在家だとほぼ不可能と言って良いです。要するに、初期仏教・部派仏教は、出家修行者の為の教え(難行道)なんです。
それに対して、大乗仏教は在家修行者の為に「易行道」を説きます。僧侶は在家修行者を導くために厳しい修行を積みますが、在家修行者は宗祖が簡略化した行法を実践する事で悟りに至ろうとします。
でも、これらの教えは全て「方便」であって、いくら冥想に励んだり、祖師の教えを実践しても、それだけでは悟れません。悟りの条件は「エゴとの対峙」であって、自分や他人のエゴを心底嫌って、死ぬ気で戦う必要があるのです。
ですから、求道者には「嫌いなものは徹底的に嫌い抜くネガティブな強さ」と「自分よりも他人を思う優しさ」の二面性を併せ持つ、強烈な個性が必要になります。例えるなら「火の鳥」の我王みたいな、複雑な人格の持ち主ですね。
個性は情緒的成熟と共に育まれるものなので、成熟した精神(霊性の高さ)も必要になります。霊性は人生経験の積み重ねで高まるものなので、ハードな人生を心正しく生き抜くか、逃げられなくなるまで延々と輪廻転生を繰り返す必要があります。
霊性が低い人は、目の前で苦しむ人を見てもヘラヘラ笑っていられますが、ある程度まで霊性を高めると見過ごせなくなり、義憤から政治に関心を持つようになっていきます。
でも、特定の政治的思想に与すると、その思想に染まってしまって、自分でものを考えなくなります。この落とし穴は宗教にも存在する為、宗教と政治を必要以上に恐れて遠ざけ、結果的に「白紙の人間」になるという別の落とし穴もあるんですね。
宗教と政治というエゴの泥沼で、もがき苦しみながら答えを求めるという経験無くして、エゴ嫌いの素地が養われる事はありません。人生の苦闘から逃げた時点で求道者の資格を喪失し、悟りへの道は閉ざされます。
悟りへの道が閉ざされるという事は、無心(意識の深淵)からも遠ざかるという事です。意識の深淵から逃げようとすれば、無心とは対極にある「下劣な刺激」に依存するしかなくなります。
つまり、自分自身のエゴから逃げている人は、無意識に自分自身を貶(おとし)め、穢(けが)そうとするんです。底辺は崩れないので失うものが無いし、足りない物は奪えば良い。他人から軽蔑されても暴力で黙らせれば良いので、安心なんですね。
ここまで堕ちてしまった人は、しばらく放置するしかありません。出来る事と言えば、自分自身が堕落しないよう、反面教師にする事くらいです。それに、本物のドン底を経験すれば、少しは反省するかも知れませんし。
求道者とは「意識の深淵を覗そうとする者」であり、覚者は「深淵を生きる者」です。そして覚者は「時空の超越者」でもあります。何故なら、意識の深淵には時間と言う概念が無いからです。
意識の深淵と六神通には密接な関係があり、神仏などの高次存在も「深淵に生きる時空の超越者」です。まあ、肉体という「意識の拘束具」を失えば、誰もが神仏と同じ存在状態に戻るんですけどね。
因みに、アカシック・リーディング能力の基礎になる「時間の無い世界」に入れるのは、四向四果の不還果、四禅の第四禅に入れた人だけです。