ことばのおきば

不定期更新

坐禅と厭世

丹田(もしくはエーテル体)を鍛えない男性は、野蛮で生殖の事しか考えられない霊的弱者に過ぎません。女性には子宮があり、恋愛と育児によって霊的に成長するので、丹田を鍛える必要がありません。坐禅は、飽くまでも男性向けの行法なのです。

男性の強靭な肉体は、自分の妻子を守り、衣食住を提供する為のものです。男性の本質は「遺伝子の運び屋」であり、女性に種付けをしたらお役御免です。敢えて酷い言い方をすると、男性は「使い捨ての種付け器」なんです。

ただ、種付けをした時点で「生物としてはお役御免」なので、そこから死ぬまでの期間を自己成長に費やす事が出来るという強みがあります。優秀な「種付け器」なら、若いうちは種付け行為だけでも楽しく生きられますが、それも30代半ばまでの話です。

 

自己成長は「観察」「定義」「概念」の三本柱で成り立ち、学習と成長と学びが一定レベルに達すると「疑念」が生じ始めます。学習によって積み上げたものを「本当にそうなのか?「本当にこれでいいのか?」と問うのが学問です。

禅の体系だと、最初は仏教教義を学習させて、ある時点から「公案」を用いて学問をさせます。これは非常に良く出来たシステムで、実際に多くの人達を悟りに導いています。

ただ、臨済宗の体育会系のノリや、曹洞宗の厳格さが肌に合わないと、禅の道から退転せざるを得なくなります。また、どちらの宗派も、現代社会特有の「権利」や「反権力」という考え方とは反りが合わないので、どう折り合いをつけるのかが課題です。

 

個人的には「権利」や「反権力」を掲げる人には、超俗世界を志す資格は無いと考えます。何故なら、権利や権力といった「定義」と「概念」は、人間社会の中でのみ通用するものだからです。

実際、登山などで野生の猪や熊と出くわしたり、急激な天候の変化に対して、権利や反権力で対抗できるのかという話です。というか、自然や外敵などの脅威に対抗する為の仕組みが「国家」なんですけどね・・・。

禅の体系がやたらキツイのは、ちっぽけな人間社会に対抗する為ではなく、大自然や、世界、宇宙と和解する為です。超俗世界では甘えや言い訳なんか通用しませんし、権利や権力も全くの無意味です。だから、どうしても厳しくなるんです。

 

自分という存在の弱さ、矮小さを認める所から、真の探求が始まります。悟りの視点からすれば、人間なんて地球の表面で繁殖しているカビ同然の存在ですが、カビと言われてプリプリ怒るような人には、真理の探究など出来ないという事です。

多分、この手の人は、禅問答を「不条理だ!」とか言って非難するんじゃないですかね。まあ、飽きるまで勝手に、人間賛美と非難を繰り返していればよろしい。私もこの手の人にはキョーミないッス。

自分が「エゴにまみれた人間」である事が許せなくなった人だけが、超俗世界と向き合う資格を得られるので、先人が創った社会の仕組みに甘えながら「ウェーイ!」とかやってるのを楽しめるうちは、好きにすりゃあ良いんですよ。

 

因みに、私は人間を賛美も、否定もしませんよ。ただ、人間社会には色々飽き飽きウンザリで、もう属せなくなっちまったというだけです。