ことばのおきば

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愛着障害

カイロプラクティックと言えば、整体みたいに体をボキボキ鳴らすイメージがあります。実際、そういう治療をする所もあるみたいですが、良い治療院になればなるほどボキボキ音をさせなくなるそうです。

茶柱さんが通っている治療院では、全身の力の入り具合をチェックしたり、リンパマッサージのような事をしたり、診療台の上に寝てから三角形の小さなマットを敷いたりするだけです。

「何でこんな治療で体調が良くなるんだろう?」と不思議で仕方が無いのですが、私の場合は一度の治療で首のヘルニアと、右腕の神経根症が改善し、しかも症状のぶり返しがありません。でも、この治療院では、これが普通なのだとか。

 

あまり具体例を書くと、誇大広告で逮捕されてしまうのがもどかしい。でも、巷に「何々が治った」系の広告が氾濫する状況は良くないし、明治大正に起きた「霊術ブーム」でも酷い治療者?が大量に出たらしいので、こればかりは仕方がありません。

霊術ブームから、肥田式強健術、臼井式霊氣療法、西式健康法、岡田式静座法、藤田式調和道丹田呼吸法など、現在も受け継がれている体系が出ているので、一律規制は良くないと思うのですがね。

鬱病治療にカイロプラクティックという所に違和感を覚える人も居ると思いますが、飽くまでも鬱は脳の病気なので、時間はかかるけど全く治せない訳ではないそうです。でも、病気の期間が長ければ長いほど、社会復帰は難しくなります。

 

病気や障害は、人から時間とお金を奪います。でも、順風満帆の人生しか知らない人には、奪われた経験がある人の気持ちや苦しみは分かりません。そこに決して埋まらない溝となる、格差と葛藤が生じる訳です。

私も人生の前半となる25年間を棒に振っていますし、その遅れを取り戻す為に「人生経験の圧縮」という無茶をする必要がありました。それでも苦労ばかりで全然楽しくない人生になってしまい、今は寿命を対価に差し出して元を取ろうとしています。

おかげで今は「人生で一番良い時期」ですが、終わりを見据えながらの生活なので、人によっては耐えられないかも知れませんね。まあ、それでも若い頃の地獄の日々に比べれば、生きていられるだけ全然マシですけど。

 

当時の私の苦しみは、両親に愛されなかったという愛着障害に由来していました。愛情飢餓感の苦痛は凄まじく「何を対価に差し出しても構わない。誰でも良いから、とにかく私を愛してくれ!」と絶叫させるほどのものでした。

でも、他の人は何の努力も無く、何も差し出さず、当然の権利として愛されているんですよ。それが悔しくて、妬ましくて、悲しくて、切なかったんです。そして、みんなと違う自分が許せなかったし、大嫌いだったんです。

この苦しみは、悟りによる「自我と記憶の分離」という形で終わりました。何故なら、愛されなかったという辛い過去が、自分の記憶ではなくなったからです。これによって戸籍上の名前の人は死に、覚者・清濁思龍が化生(けしょう)した訳です。

 

愛情飢餓感は愛着障害とも言われていますが、所詮は記憶が原因ですから、悟れば一瞬で解決する問題です。障害は「一生治らない」という意味ですが、精神医療が進歩すれば、愛着障害は「障害」という扱いではなくなると思います。

自我の正体は「未知の霊的物質」であり、その霊的物質を計器で検出する事さえ出来れば、手術や治療行為のような方法で記憶との分離を行ったり、人工的に悟りを起こせるようになるかも知れません。

そしてその方法は、悪名高きロボトミー手術のように脳をいじくるものではなく、カイロプラクティックのような、ある種のエネルギー治療になる筈です。科学的には、禁断の領域に踏み込む話ですけどね。

 

無明庵の説では、そもそも人類は自我の総量が足りておらず、機能不全に陥っているらしいので、まずは自我の復元が最優先だという所は変わらないのかなという感じです。