パリオリンピック女子柔道52kg級、阿部詩選手の号泣が未だに話題になっていて驚いています。柔道は武道なのですから、勝ってガッツポーズをしたり、負けて泣き喚いたらダメに決まってるでしょ。
スポーツとは違って、武道は精神修養を兼ねています。勝って驕らず、負けて腐らず、より高みを目指す精神性を求めなければ「道」にはなり得ません。
大相撲の朝青龍や白鵬が嫌われたのは、武道の精神を体現する事が出来なかったからです。強いだけのチンピラは横綱の地位に相応しくないというのが、日本人共通の武道観なのです。
勝つ事だけを考えるなら、精神性なんか邪魔なだけです。競技場の内外で嫌がらせの限りを尽くし、反則ギリギリの戦い方をして、それでも勝てないと分かったら、危険な技をかけて対戦相手に怪我をさせる。
本当にこんな真似をしてきた国もあるのですが、それでも金メダル獲得という結果を出せば、誰も文句を言えなくなります。でも、こんな醜悪な真似をする人間は、武道やスポーツではなく、戦場での殺し合いがお似合いです。
武術や格闘術は、敵を殺す為の技術体系なので、精神性を高める要素はありません。躊躇なく、エゲツなく、最大効率の攻撃によって敵を無力化させれば良いだけです。実際、スポーツ選手の中には、こちらの方が向いている人も居ます。
因みに、私は柔道の有段者ですが、趣味で古流柔術の技も習得しています。何故なら、柔道で基礎を固めてから古流の技を学ばないと、護身術としては使い物にならないからです。
素手で人を倒せる自信が無いと、実戦の際にビビッてしまって戦えません。敵が強くて勝てそうに無くても、相手を戦闘不能に出来れば、大切な人を守れます。
本来、柔道の捨て身技は、敵と刺し違える為の技だったと聞いています。古流柔術は、いわゆる「殺法」がメインですが、時にはそういう技も必要だと考えられていたのでしょう。
阿部詩選手は強いけど、武道の精神を体現するには早過ぎました。とは言え、まだ24歳の若者ですし、連覇のプレッシャーも凄かった筈です。だからこそ、武道には心技体が揃った指導者、即ち「達人」が必要なのです。
達人でなければ、オリンピックに出場するような世界トップクラスの選手を相手に、物申す事など出来ません。達人の輩出こそが武道の意義であり、それが出来ないのなら、もはや「道」ではなく「術」に過ぎないのです。
外国にもスポーツマンシップや騎士道精神(シーバリー)がありますが、それは美学や道徳に近いものであって、人間性の高みを目指す「道」とは言えません。武道は日本の精神文化の結晶であり、その道は仏教の悟りにまで通じていなければならないのです。
男子100kg超級の準決勝で、日本の選手に韓国の選手が勝利した際、派手なパフォーマンスをして世界中から非難されました。しかし、旭日旗でお騒がせのソ・ギョンドク教授は「阿部選手が号泣したのは武道を守ったことなのか」「自国の選手から管理せよ」と一喝したそうです。
ソ教授の言い分は、武道の精神とは真逆です。対戦した日本の選手を称えるどころか国単位で侮辱して、自国の選手の行いを正当化するという、まさに最低最悪、醜悪極まりない言動です。
ソ教授のような人物が増えれば、世界そのものが腐敗します。それを防ぐ為にも、もっと武道の精神を普及させなければなりません。何故なら、武道の精神が世界中に広まれば、ソ教授のような恥知らずは自国から出られなくなるからです。
海外のJUDOは金メダル狙いのスポーツですが、日本の柔道は飽くまでも武道です。個人的には、世界中の人が見るオリンピックの檜舞台で武道の精神が発揮されるのは、確実に金メダル以上の価値がある事だと思っています。