ことばのおきば

不定期更新

冥想法としての政治

このブログでは政治についての話をしますが、私は政治の専門家じゃないし、読者のみなさんに政治への関心を要求するつもりもありません。というか、政治は10年くらい勉強しないとモノにならないので、気軽にお勧めする気にはなれないんですよね。

個人ブログなので多少は私見が入りますが、なるべく私はスピな視点で政治を語ろうとしています。言うならば、仏教の止観冥想(サマタ・ヴィパッサナー)や、ジュニャーナ(知恵)・ヨーガを、政治的な味付けで解説しているという感じです。

政治のリーダーは我が強く、偏見の塊じゃないと務まらないし、そんな人に就いていっても、情緒的成熟や、悟りには繋がりません。要するに、政治家や活動家はサル山のボスで、政治的な対立は縄張り争いみたいなものなんです。

 

心の底ではくだらないと思っていますが、国民が政治に無関心だと民主主義は成り立たないので、やむを得ず政治に参加しています。そして、本来の私はノンポリですが、現状だと左翼が強過ぎるので、バランス取りで右翼に加担している状況です。

右翼と左翼が拮抗していて、建設的な議論を重ねているなら、私なんかが政治関連の記事を書く必要はありません。でも、現状では右翼と左翼は不毛な罵り合いばかりしているし、ノンポリは身の回りの狭い範囲の事にしか関心を示しません。

この状況を長らく放置してきたから、侵略の意図を持つ外国人を呼び込んでしまったのです。そして連中は歴史をねじ曲げて、日本人の「恥」や「罪悪感」に付け込んできているのですが、左翼とノンポリには、そのリスクが全く見えていません。

 

本当の善人なら、他人の悪意には敏感になります。何故なら、鈍感だと何も守れないからです。でも、自分にしか関心がない人は、他人の悪意に鈍感で、イジメや、モラハラパワハラを矮小化したり、正当化したりする訳です。

そして、自分がイジメやハラスメントの対象になると、被害者ぶって泣き喚き、周囲の人を味方にしようとするのですが、そんな自分の醜悪な姿を顧みる事はありません。まあ、人間性の高みを目指す生き方とは、全くの逆ベクトルですよね。

この手の人達を反面教師として観察していくと、自らの生き方や、歩むべき道が見えてくるのは皮肉な話です。でも、世の中には尊敬に値する人が少ないので、こういう学び方をするしかないんですよ・・・。

 

「あんな人達みたいにはなりたくない」という考えは、自らの尊厳や、誇り高さに由来します。そして、自分の方が誰々より上だとか、誰々より自分の方が正しいという比較は、他人を見下したり、差別をする事に繋がります。

大切なのは、自分なりに人間性の高みを目指しながら、自分自身に「何が本当に正しいのか?」と問い続ける事です。人生という旅に答えは無く、輪廻転生から解脱するまで旅が続きます。人間は、誰もが旅の最中なのです。

答えありきで考えるのは楽ですが、それでは旅になりません。こういう楽さは、停滞しているのと同じです。それに、停滞している人間が、旅を続けている人間に物申す資格はありません。

 

水たまりの水が腐るのと同じで、右も、左も、ノンポリも、停滞したらダメなんです。そして停滞の主な原因は、自惚れと、自己正当化です。つまり、敵は己の中にあるという事です。