今の日本人は霊的な基礎が出来ていないので、ちょっとした事で挫けて再起不能になったり、簡単にマインドコントロールされたりします。
国民全員が「本当に生きているのか?」と疑いたくなるほど生体反応が薄いし、意思も極端に弱いからマトモに恋愛も出来ません。これでは苦難を乗り越えて、人生を切り拓くなど夢のまた夢です。
みんながみんな、前倣えをしているだけで、前倣えをしない人には機械的に暴言を吐いて石を投げる。そこに思考は存在しないし、感情も殆ど偽物だから、エーテル体とアストラル体が酷く未熟で、神霊や精霊とも繋がれません。
そんなんで生きてて楽しいのかなって思うのですが、みんな似たようなものだから、曖昧な存在のままで居る方が幸せなのかも知れませんね。
若い頃の私は、そんなゾンビ社会に馴染もうと必死でした。でも、その痛々しい努力が実る筈もなく、今は世捨て人、遁世者となった自分を誇りに思うようになっています。
会社員はほぼ全滅ですが、自営業で頑張っている人の中には、世捨て人か遁世者みたいな人も居ます。そういう人って生き生きしていて、とにかく魅力的なんですよね。単に社会性が無いだけの人とは、根本的に違うんです。
コロナで廃業してしまいましたが、私が30年近く通っていた床屋さんがありまして、その店主が本当に生き生きしていて、実に肚(はら)の据わった人だったんです。
発達障害と毒親持ちで、コミュニケーション能力がゼロだった私は、その床屋さん相手に、変な汗をかきながらコミュ力を磨く努力をしたものです。
床屋さんとマトモに会話が出来るようになったのは、確か30代の後半、前カノとお付き合いをして「別にコミュ力なんか要らんやん」と開き直れてからだったと思います。
私の周囲には「変わり者」を見下して差別する人しか居なかったし、私も「変わり者」の自分が嫌いでした。だから必死で「変わろう」としたのですが、それは大きな間違いでした。
何故なら、周囲の人達は情緒的に成熟した「マトモな大人」では無く、ただ単に数が多いだけの人達だったからです。私は父親に存在を否定されたトラウマから深刻な劣等感を抱えていて、完全に自己評価が狂っていたのです。
そのせいで周囲の人達を過大評価してしまい、自分が折れて、迎合しなければならないと考えていました。でも、床屋さんと前カノのおかげで、その間違いに気づいたのです。
価値観は世界観であり、私の世界観はあまりに高潔過ぎて、周囲から拒絶されるのは当然でした。世界観が違えば、話など合う訳がありません。つまり、コミュ力の正体は、自己評価だったのです。
自己評価は迷妄に等しいもので、早い話、肯定的な思い込みに過ぎません。コミュ力の正体が明らかになるにつれて、私はコミュ力が欲しいとは思わなくなっていきました。
コミュ力の正体がこんなものならば、私は要らない。世界観が近い人達と仲良く出来れば、それでいい。というか、世界観が違いすぎる人達と仲良くなんか出来る訳がないし、それはそもそも無理な願いだったのです。